年譜>その01 1928〜33    /ヨシミツ 1928(昭和3)/0歳
〇誕生(11/3)。大阪府豊中市に父・手塚粲(ゆたか)、母・文子の長男として生まれる。「治(おさむ)」と命名される。これは、戦前、11/3が明治節であったのにちなむ。

〇手塚治虫は、のちに、父のことを次のように語っている(要旨)。
 父方の実家はわりに放任主義だったようだ。ボート部でカメラいじりをやっていたので、まあ、坊ちゃん育ちだったろう。家庭内における父の立場は、全くのワンマンであった。食事の時は、座布団を2枚重ねて座り、父だけあぐらを組み、おかずはいつも1〜2品多かった。
 ある時、朝食にチーズが出たのを、黙って取ったら「欲しければ、頂きますと断れ」と怒鳴られたことがあった。子ども心に、父親は特権階級だな、と感じた。

〇手塚治虫は、のちに、母のことを次のように語っている(要旨)。
 母の父は連隊長で、かなり厳しいスパルタ教育を受け、礼儀作法をたたき込まれたようだ。父と結婚後、性格のあわない点のあることにに気づいたが、すぐにあきらめたそうだ。保守的な妻の原則を絵に描いたような生活だったように思う。
 反面、モダンな少女趣味も持ち合わせ、ピアノを弾き、宝塚少女歌劇には月に一度ほど通っていたりした。自分もその影響を受けている、と思う。

1933(昭和8)/5歳
〇兵庫県川辺郡小浜村鍋野(宝塚市)に引っ越す。
 手塚治虫は、のちに、自分の本籍は「宝塚市鍋野29」だ、と書いている。隣は宝塚歌劇のスター天津乙女さんと雲野かよ子さんの姉妹の家であった。手塚治虫の母親は、エーコさん、ハナコさんと呼んでいた。向かい隣のはずれの家には糸井しだれ(園井恵子と書いてあるものも)さんが居た。しかし彼女は、広島の原爆で死亡した。
 そのほか越路吹雪さん、岩谷時子さんが住んでいた。岩谷時子さんは、宝塚歌劇団の事務所に努めていた。
 宝塚音楽学校の入学シーズンには新入生たちが、手塚家の前を通り、天津乙女さんの家にあいさつに来る。
 また4月の宝塚は桜が満開で美しい、宝塚は桜の名所だ、と言っている。歌劇場へ行く途中、昔、川の堤だったのを桜並木にしたプロムナードは「花のトンネル」と呼ばれた。アーチ状に並んだ桜から、レビューのフィナーレの紙吹雪のように、桜の花びらが観光客の上に降り注ぎ、楽しませる。宝塚周辺には「一目千本」といわれた桜の林があり、パッと一斉に咲くと、春の実感がわいたものだ。

〇手塚治虫の自宅は、宝塚の駅から坂道を上り、静かな住宅街の、大きなクスノキのある家であった。

〇幼い手塚治虫は、歌劇のことを「タヌキ」と言っていた。それで、宝塚のスターのことをタヌキネーチャンと呼ぶんだこともあった。また祖父の法要の時、祭壇にしつらえてあった幕を指差し、幕があがって歌劇が始まる…というようなことを幼な言葉でしゃべって、母親をハラハラさせたこともあった。

〇すでに、この頃から絵を描くことが好きで、朝起きて枕元にノートがないと、不機嫌であったという。また、すぐにノートを使い切ってしまうので、手塚治虫の母親は消しゴムで消して、そのノートをまた与えた。

〇手塚治虫の母親は、漫画を読んでくれたり、寝物語にお話をしてくれたりした。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その01について。    /ヨシミツ  文中、明治節とあるのは、戦前の祭日で、明治天皇の誕生日のことです。手塚治虫の生まれる前年(1927(昭和2)年)に制定されました。
 それと、手塚治虫が、両親について、回想する時、どうも、母親の方に、偏って、多くを語っているような気がします。
 あと、母親の母、つまり、手塚治虫の祖母が、名古屋の出身で云々、という記事もあったんですが、今回は、割愛しました。

 父親像については、NHKでドラマ化された時の(フィクションでしたが)、手塚治虫の父=三浦友和のイメージが強くて、手塚治虫が語る「ワンマンで厳格な」感じは、逆に、戸惑ってしまいます(笑)。

 ところで「手塚治虫物語」で、手塚家の表札に「手塚寓」※とあったんですが、これは、手塚治虫の祖父の名前なんでしょうか。

 ※後に判明:自宅を謙遜して、そういった表札を掲げるとのこと。

                              ヨシミツ