年譜>その02 1935 /ヨシミツ
1935(昭和10)/7歳
〇大阪府立池田師範附属小学校(現大阪教育大学付属池田小学校)に入学。
入学のことは、手塚治虫が自宅のブランコで遊んでいる時に、帰宅してきた母親から告げられる。その時、手塚少年は、ワッと泣き出した。
この学校は、恵まれた家庭の子どもが多かった。また「キントト小学校」とも云われた(略して池附。池にフだから)。
1学年東組・西組の2クラスで、手塚少年は西組であった。
〇初めての父兄参観日に「ポイトコナ」のお話をする。
〇身体が小さく、運動は苦手であった。しかし、自分でお話を作って、それをクラスの皆に聞かせることなど、とてもうまかった。また学校ではよく泣きべそをかいていたという。
〇この頃「ガジャボイ」というあだ名がつく(ガジャガジャ頭のボーイ)。
〇父・粲は、大企業のサラリーマンで、北風という俳号を持ち、カメラ(当時はまだとても高価であった)で写真を撮るなど、趣味豊かな人物であった。家庭用映写機で、ディズニーアニメなど(ディズニー『オスワルド・ザ・ラビット』、『フィリックス・ザ・キャット』、『ミッキーのチュー・チュー』、チャップリン『ゴールド・ラッシュ』、キーストン=コップの短篇など)を子どもに見せたり、書棚には、北沢楽天氏、岡本一平氏や外国の漫画などが揃っていて、手塚治虫もそれらの本を読んでいた。
ある日、手塚少年は「ミッキーマウス」の手の指が4本で、手袋に穴が開いているように見えたのを、父親に尋ねた。父はうるさそうに、アメリカ人は、手の指が4本なんだ、ということ、手袋の穴は、アメリカ人は汗掻きで、暑がりだからだ、と教えた。後年、手塚治虫は、「アトム」の指を長い間、4本に描いていたのは、この「ミッキーマウス」の影響だ、と言っている。
父が母に出すラブレターには漫画が描いてあった、と手塚治虫は聞いていた。父親は漫画が好きであったが、しかし、手塚少年が漫画を描くことに対しては反対であり、描いているノートを取り上げたり、ひどい場合は、手塚少年を家の外へ締め出したという。手塚治虫は、父親が、漫画ばかり描いていては、ろくな人間にならない、と心配したからだろう、と回想している(要旨)。
〇この頃読んだ漫画として、中村書店刊・謝花凡太郎著『とんまひん助』について、後年、エッセーを書いている。
この漫画で、徳川家康の格言(「人の一生は、重き荷を背負うて…」)を知り、深く感動するとともに、のち、人生の苦難を味わった時、思い出されたという。
〇宝塚大劇場が火災に遇う。手塚少年は自宅2階からその様子をながめ、ぼろぼろ泣いていたという。
ヨシミツ
年譜の付録 その02について。 /ヨシミツ
「ポイトコナ」のお話というのは、小学1年生の手塚少年が創作したお話のことです。
お母さんに買物を頼まれた子どもが、途中で「ポイトコナ」と言って、小川を飛び越えたため、買うものの名前をすっかり忘れて、お店で「ポイトコナ」とばかり言ってしまう、という内容です。
ほかに、朝、起きると、寝癖がきつかった、というような話も載っていました。
ミッキー・マウスの指の一件、お父さんも、ずいぶん、乱暴なことを教えたものですね。
宝塚大劇場の火災のことは、宝塚歌劇何十年史あたりに、詳しいことが載っていそうですね。
ヨシミツ
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