年譜>その55 1987       /ヨシミツ 1987(昭和62)/59歳
〇外務省の依頼による文化使節として渡仏する(3月)。フランス・ナンシーで講演をする。

〇「コミック・トム」で『ルードウィヒ・B』の連載が始まる(6月〜1989(平成1)2月:未完・絶筆)。
 この作品の連載は「コミック・トム」編集者・竹尾氏との会談(3/29)の中、手塚治虫のしめした、伝記・フィクションそれぞれ10タイトルあまりの腹案の中から選ばれた。
 手塚治虫は、伝記であれば、時代と格闘して信念を貫く、そんな人物を描きた   いということだった。

〇アニメのスタジオを移転する(春頃)。

〇実験アニメーション『森の伝説』の制作が始まる。手塚治虫の発想から十数年を経ての実現であった。この年の「広島国際アニメ映画祭」(8月)に間に合わせる計画だったが、断念した。
 そこで、同映画祭には短篇2本(『村正』、『おす』)を出品することにした。この2本の制作が始まったのは、同映画祭開催2週間前のことであった。

〇「ビッグコミック」で『グリンゴ』の連載が始まる(8/10〜1989(平成1)1/25:未完・絶筆)。南米でただひとりの日本人商社マンが、どうやって日本人らしさを発揮するか、その男を通して日本人のアイデンティティを問い詰めてみたい、というのが、手塚治虫のねらいであった。

〇第2回「広島国際アニメ映画祭」が開催される(8/21)。手塚治虫は大会副会長と審査員を努めた。グランプリ獲得は、フレデリック=バック(カナダ)の『木を植えた男』であった。
 この大会の名誉委員長には、カレル=ゼーマン(『悪魔の発明』)、審査員にポール=ドリエセン、ブルーノ=ボツェット、ジョン=ハラス、特偉、巌定憲などの各氏に加え、当時、日本で異常なほど人気のあったソ連のユーリ=ノルシュテイン氏の出席があった。
 開催中、広島市内の中華料理店で、手塚治虫や大会関係者と参加した中国代表(特偉:中国アニメの名匠、巌定憲:アニメ監督、ASIFA中国理事)との懇談がもたれた。席上、中国側から翌年開催予定の中国での国際アニメ祭に、手塚治虫に審査員として参加してもらいたいとの要請があり、手塚治虫は快諾している。
 同映画祭フィナーレの受賞作発表直後、国際審査員全員が、突然、ベレー帽をかぶり、手塚治虫に敬意をあらわす、という一幕もあった。

〇レーザーディスク『ジャンピング 手塚治虫』が発売される。この作品は、第2回「映像ソフト大賞(通産大臣賞)ビデオ部門賞」を受賞する。
 その中で、手塚治虫は自分のアニメ制作について、次のように語っている(要旨)。
 自分は昆虫でも動物でも、生きて動いているものに「色っぽさ」とは違う、根源的なエロチシズムを感じる。とまっている絵を動かすということには、生命のないものに生命を吹き込む造物主のような喜びがある。動きもなめらかな円運動を基本にしてエロチシズムを表現したい。理想をめざして、アニメ作りを始めるが、いつも作っている途中で、アニメはこんなものじゃないと、疑問を持つ。そして次の作品こそは、と期待する。
 自分の実験アニメは漫画の収入で作っている。そこで、冗談で、漫画を本妻、アニメを愛人にたとえることがある。自分が愛人のアニメにのめり込むのは、アニメはメタモルフォーゼを表現できるからだ。形がどんどん変化していくメタモルフォーゼのおもしろさ、自分は変化の過程を描いて、動かすのが楽しくてしょうがない。自分は、アニメーションで、このメタモルフォーゼを追求していきたい、と。

〇実験アニメーション『森の伝説』第一楽章、第四楽章が完成する(12月)。

〇エッセー集『見たり撮ったり映したり』で「キネマ旬報愛読者賞」を受賞する。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その55について。(略)
                              ヨシミツ