年譜>その54 1986 /ヨシミツ
1986(昭和61)/58歳
〇「NHK特集 手塚治虫/創作の秘密」が放映される(1/10)。この番組の中で、手塚治虫は、次のように語っている(要旨)。
最近、丸を描けなくなった。昔はいとも簡単に描けたが、丸を描く時、持ちあげて降ろす線が、目に見えてふるえる。年のせいか、細かな絵も描けなくなっている。自分の絵は丸から発想するので、これにはまったくジレンマを感ずる。これが解決できたら、あと40年は描ける。とにかくアイデアは、バーゲンセールしたいくらいあるんだ、と。
〇小説誌「野性時代」に『火の鳥/太陽編』の連載が始まる(1月〜1988(昭和63)2月)。
〇手塚治虫の父・粲さんが亡くなる(5月)。葬儀の日は雨が降り、個人の遺言によってドビュッシーの『海』がかけられた。
〇手塚眞監督のビデオ映画『妖怪天国』のロケが多摩丘陵のとある神社で行なわれた(6/3)。手塚治虫をはじめ、梅図かずお、馬場のぼる、水木しげるの各氏が出演した。手塚治虫が、息子・眞さんの映画に出演したのは、これが最初で最後となった。
〇外務省主催の「日本紹介総合週間」のため渡米する(3月)。絵巻物・浮世絵から始まる日本の映像文化全般について講演を行なった。訪問先はワシントン、サンディエゴ、ナッシュビルであった。
〇ミネソタ州ミネアポリスの美術館で講演のため渡米する(6月)。旅行中のある日、その日に限ってショルダーバッグを携帯していなかったにもかかわらず、どこかに置き忘れたと思い込み、ちょっとした騒ぎになった。実はホテルのトランクの中にあった。
〇『アドルフに告ぐ』で第10回「講談社漫画賞(一般部門)」を受賞する(6月)。
授賞式(6/21)は、手塚治虫が渡米中であったので、夫人が代理で出席し、メッセージの代読をしている。メッセージの内容は次のようなものであった(要旨)。
本来、若い人が激励にもらう賞だが、今回は、場合によっては中年にももらえるのだと、激励の意味だと考えています。中年漫画家の皆さん、年に関係なく、お互いに頑張りましょう。がんばりや、カのカッちゃん。
〇第1回「ザグレブ国際アニメ映画祭」に参加するため、旧ユーゴスラビアへ行く。同映画祭の審査員をつとめるためである。ミネソタから帰国すると、そのまま成田から機上の人となった。
同映画祭では実験アニメーション『おんぼろフィルム』が特別上映され、拍手喝采を浴びた。
〇自主制作アニメ『山太郎かえる』/「月刊少年ジャンプ」(1980(昭和55)1月))を完成させる(8月)。
〇「日本テレビ」の「24時間テレビ」のスペシャルアニメ『ボーダー・プラネット』が放映される(8月)。手塚治虫が原案・総指揮を担当した。
〇『陽だまりの樹』の連載が終了する(年末)。そのおり、手塚治虫は次のように述べている(要旨)。
自分の時代物は『陽だまりの樹』で幕末を、『シュマリ』/「ビッグコミック」(1974(昭和49)6/10〜1976(昭和51)4/25)で明治初期を、『一輝まんだら』/「漫画サンデー」(1974(昭和49)9/28〜1975(昭和50)4/12)で大正を描き、『アドルフに告ぐ』で戦前を、『奇子(あやこ)』/「ビッグコミック」(1972(昭和47)1/25〜1973(昭和48)6/25)で戦後、『MW(ムウ)』/「ビッグコミック」(1976(昭和51)9/10〜1978(昭和53)1/25)で沖縄返還の頃、と一応埋めつくされた。これらはその時代その時代の視点で、日本人の一面を描いたもので、次の作品では視点をかえて、日本人そのものを見つめ直してみたい、と。
ヨシミツ
年譜の付録。その54について。 /ヨシミツ
相変わらず、精力的な活動が続きます。
でも、今回の中で、NHK特集の中で語ったという、「最近、丸を描けなくなった…」という言葉が、とても印象に残っています。
私が、その言葉を、最初に聞いたのは、当然、この番組を見てましたから、その時のはずなんですが、心に残ったということでは、記念館OFFの時のシアターでのことでした。
「アイデアだけなら、バーゲンセールをするほど…」という言葉にも、ズシリとくるものがあります。
天才といわれた人でも、そう言われ続けていたさなかでもあったのに、あんな悩み事があったんですね…。
ヨシミツ
|