年譜>その04 1939〜41    /ヨシミツ 1939(昭和14)/11歳
〇大阪府立池田師範附属小学校の新校舎が完成する。完成間もない校舎は、手塚少年たちの格好の遊び場となった。

〇この頃、宝塚の山野で、昆虫採集に熱中していた。

〇小学校の目と鼻の先に「尊鉢(そんぱち)」と呼ばれる古墳があったり、付近は渡来人の遺跡の吹き溜まりのようであった、という。ちょっと地面を掘れば、土偶のかけらや矢じりが簡単に手に入った。

〇平山修次郎著『原色千種昆蟲図譜』を見て、オサムシという虫を知る。本名の治に虫をつけ、手塚治虫というペンネームを思いつく(ただし、この時はオサムシと読ませ、オサムと読ませるようになったのは1950(昭和25)年頃からのこと)

〇この頃、弟・妹と遊ぶ中、「ヒョウタンツギ」、「ママー」などのキャラクターを生む。

〇親友・石原実氏とガリ板刷りの雑誌「世界科学大系共同製作文庫」を作る。たちまち職員室の話題になったという。
 また石原氏は「コンチス・スパーリング・スペーパース」という、おかしな秘密結社のようなものを始め、手塚少年もこれに参加した。ある日、授業中に、校舎の裏の穴に集合し、"授業破壊活動"をしたので、先生に大目玉をくらい、解散となった。

〇後年、手塚治虫は、小学校時代に観た宝塚歌劇の思い出として『パリゼット』、『花詩集』、『ミュージック・アルバム』の3作品をあげている。天津乙女『ジャン二等兵の歌』、エッチン・タッチン『三人の子供の歌』、『すずらんの歌』が好きだといい、他にレビューとしては『トウランドット姫』、『マグノリア』、『ヂャブ・ヂャブ・コント』が印象に残っているという。

1941(昭和16)/13歳
〇大阪府立北野中学校(現北野高校)に入学。面接の時、小学校で、級友と作っていたガリ晩刷りの回覧誌のことを詳しく尋ねられる。手塚治虫は、このことが合格のきっかけであったと回想している。

〇「少年倶楽部」をとってもらうようになる。
 当時の「少年倶楽部」は、田河水泡『のらくろ』の連載が終盤であった(1931(昭和6)1月〜1941(昭和16)11月)。
 手塚治虫は『のらくろ』の思い出について次のようにふりかえっている(要旨)。
 「黒いからだに大きな目…」の歌とともに『のらくろ』は、ある年代にとって青春であり、「少年倶楽部」をひもといて『のらくろ』のページが現われることは、家へ帰って家族に会ったような安心感があった。
 『のらくろ』の連載では、大きな悲しい出来事が2回あった。1回は「のらくろ」が猛犬連隊を除隊して、階級章のない無冠の姿になった時だ。「われわれはさみしくなるな」と部下たちが別れを惜しんで泣いている姿の絵は、読者全員の気持ちの代弁であった。
 もう1回は、唐突に連載が終わった時だ。ラストシーンは、暗い炭坑の坑道の中で土まみれになって「資源開発に一生を捧げます」というようなセリフを言い、たった2ページでしめくくられていた。この突然の終了は、出版界、いや、日本の文化全体をおおっていく暗い影を漠然と感じたものだ。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その04について。    /ヨシミツ  池附小学校の新校舎で、遊んだ時の様子は、「物語」の方では、手塚少年がリーダシップを発揮して、次々に新しい遊び="冒険"を考え出したように書かれています。
 「大全」の手塚治虫自身が書いたものによると、石原実氏のイニシアティブが強調されていました…。

 いずれにしろ、以前のプラネタリウムのことといい、ガリ版刷りの雑誌発行といい、"秘密結社"を作ったりといい、この頃、石原実氏は、手塚治虫の大親友、といった感じですね。

 手塚治虫が小さな頃から興味を示したもので、のちの作品と関係が深いものというと、昆虫のこと、宝塚のことについては、以前から、よく知ってたんですが、古墳(古代史)のことにも興味があった、というのは、個人的に、とてもうれしいです(笑)。

 さて、中学入学試験の面接で、手塚少年は、軍事教練の将校(教官)から、「その身体でついていけるのか…」というようなことを問われたそうです。手塚治虫は、この頃、まだまだ、ひ弱な少年だったようです。

 マンガ『のらくろ』の連載が終了する 1941(昭和16)年11月といえば、もう翌月には、太平洋戦争の開戦です。"「資源開発に一生を捧げます」というようなセリフ"には、今とは、また違った状況が反映されているようです。

 年譜が、1945(昭和20)年まで来たところで、それまでの時代(世相)の様子について、まとめてみますね※。
※今回は割愛します。

                              ヨシミツ