年譜>その05 1941〜43 /ヨシミツ
1941(昭和16)/13歳
〇美術部(班)に所属する。しかし、時節柄、絵の具もなく、スケッチも禁止され、活動はもっぱらスライドを見ることばかりだった。
〇軍事教練の教官の似顔絵を漫画で描いているのを、当の教官に発見され、厳しい叱責を受ける。その時、手塚少年のくせで、舌を出したところ、往復ビンタを食らう。また教練の時間の度に、完全武装でグランド10周をするよう、言い渡される。この時、手塚治虫は、絶対に軍隊には入らないと誓ったとう。
〇父・粲が召集される。
〇この頃、『昆虫戦線記』を描く。
〇級友と「六稜昆虫研究会」を作り、肉筆雑誌「昆虫の世界」を発行する(1944(昭和19)年6月まで続く)。
〇北野中学断郊競走(マラソン大会)で300人中20番台に入る。体力的に自信をつけ始める。
〇地歴班にも所属する。地歴班から博物班が分かれ、博物班発行の研究雑誌「動物の世界」の表紙を描いたりする。
地歴班で、奈良県下を尋ね歩いたことがある。その当時、石舞台古墳は、観光コースからずれていた上に、雑草の中に放置されていた。酒船石や亀石などの石像群に興味を持ち、先生に「いつの時代の産物かわからない。従って目的も用途もわからない」と言われ、先生にもわからないほど古いものなのか、と妙に感心したという。
『日本古墳史』を読んで、横穴古墳にたいへん興味を持ち、退避壕として掘られた穴へ、横穴古墳と間違えて、いちいちもぐり込んで、おこられるほどだった。
〇宝塚遊園地昆虫館学芸員(のち館長)福来氏に採集した昆虫の同定などしてもらう。
またある日、手塚少年は、カブトムシの雌雄型を見つけ、宝塚遊園地昆虫館へ持って行き、この時は、館長・戸沢氏に見てもらった。ところが戸沢氏は、これは畸形だよ、とこともなげに言ったので、手塚少年は、やっきになって雌雄型であることを説明した、という。40年たって、そのことをふりかえり、手塚治虫は、断固として自分の見解は正しいと、思っている、と書いている。
〇海野十三著『火星兵団』(毎日小学生新聞)などに熱中する。
後年、手塚治虫は海野十三著『地球要塞』について、次のように述懐している。
この作品の挿し絵の中に、戦艦が海面から浮かび上がって爆発しているシーンがあった。そのイメージが強烈で、『来るべき世界』の一場面に、無意識にそのようなシーンを使ってしまった。あとから2〜3人の人に指摘を受け、「しまった」とカブトを脱いだ。ところが小松左京氏によると『地球要塞』の挿し絵そのものも、アメリカの何かの雑誌の口絵に載っていたものを参考にしたらしいという話だ。すると、これは、ものまねのものまねということになるらしい。
〇ドイツ・ウーファ社の科学教育映画『大自然と創造』に熱中する。そのほか、宝塚の映画館で、多くのアメリカB級SF映画を見て、熱中する。
1942(昭和17)/14歳
〇『おやじ探偵』を描く。キャラクター「ヒゲオヤジ」登場(友人の描いた友人のおじさんの似顔絵から生まれた)。
1943(昭和18)/15歳
〇この頃『甲蟲図譜』、『原色甲蟲図譜』、『昆虫手帳』、『昆蟲の世界』などをまとめる。
〇美術の岡崎先生に才能を認められ、励まされる。またデッサンをしっかりするよう勧められる。
ヨシミツ
年譜>年譜の付録。その05について。 /ヨシミツ
手塚治虫の中学生時代の、特に昆虫関係の諸作品については、記念館あたりで見られますし、出版物として発表されていたりしますね。
なかでも『甲蟲図譜』、『原色甲蟲図譜』などは、息を飲むほどの精緻さです。絵の具のかわりに、自分の血を使った、というのは、この時のことでしたっけ。
ところで、この頃の手塚治虫の表記を見ると、「虫」は、おおむね「蟲」になっています。ですから、手塚治虫も手塚治蟲ですし、手塚歩行蟲としてあるものもあります。読みは、治蟲も歩行蟲も、"おさむし"です。
「昆蟲の世界」には、名物漫画と銘打って、ヒゲオヤヂを主人公にしたマンガが載っています。目次に、モブ(群衆)シーンを使っている号もありますよ。
と、ここまでの書き込みは「手塚治虫の世界」展の図録を見ながら書いてます。同展覧会が、東京で開催のおり、【Qさん】に送って頂いた、黄色いアトムの表紙の「大奮発号」です。
その節は、どうも、ありがとうございました > 【Qさん】
最後に、『来るべき世界』の"戦艦が海面から浮かび上がって…"というシーン、そのもとになったという海野十三著『地球要塞』の挿し絵、さらに、そのもとのアメリカの雑誌の絵と、3点並べて見てみたいですね。
ヨシミツ
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