年譜>その06 1944〜45    /ヨシミツ 1944(昭和19)/16歳
〇夏休みを修練所で過ごす。修練所での合宿途中、両腕の糜爛(びらん)性白癬疹(水虫の一種)により帰宅させられる。

〇軍需工場への動員も通年となり、ほとんど授業がなくなる。工場での就業中も隠れて漫画を描き続けた。終戦の年(1945(昭和20)年)までに、約 3,000 枚ほどの原稿が描き貯められていたという。
 また出来上がった作品をトイレの壁で発表したというのもこの時のこと。

〇『ロスト・ワールド(前世紀)』を描く。キャラクター「うさぎのミイちゃん」「ヒゲオヤジ」、「アセチレン・ランプ」登場。
 この試作の中の、「ヒゲオヤジ」と「うさぎのミイちゃん」が、話をしながら、道を歩くというシーンがある。これは、当時、手塚少年の抱いていた空想で、自分が生み出したキャラクターと自分自身が銀座の人通りの中を歩き、通行人が目を丸くする中、得意げになる、というのがあり、それを、作中の自分=「ヒゲオヤジ」をもちいて、具象化したものだという。

〇『春の蝶類』、『昆蟲つれづれ草』などをまとめる。

〇この頃古雑誌(=「アサヒグラフ」)から、ジョージ=マクナマス著/横山隆一訳『親爺教育 ジグスとマギー』などを見つけ、漫画の手本とする。

1945(昭和20)/17歳
〇出版物もなかなか手に入りにくくなってる中、キクオ書店で『最新科学画報』4冊を手に入れる。手塚少年は、拝むようにして買った、と日記に書いている(3/23)。美しいばかりか、非常な珍本だとも書いてある。別の店で『昆虫大図鑑』を買おうとしたら、店が閉まっていた。疎開したらしい。

〇空襲による悲惨な情景を見る。大勢の人間の焼死体の中、牛や犬の遺体も見る。この時の情景は、後にいたるまで強く印象に残った。昆虫マニアであった手塚少年は、同時に、多くの虫たちを殺していたことになるが、この時から、虫を殺すことに、恐れを感じるようになった、と述懐している。

〇旧制北野中学を卒業(3/28)。

〇卒業前後、級友の似顔絵を描く。全員の似顔絵を、6月までに描いて、記念とするつもりであった。

〇級友(青山氏)の歓送があるということで、大阪駅へ行く。応援歌などやっているうちに物見の輪ができて、しだいにのぼせて、片肌脱いで「ノーエ節」を歌い始めた。そこへ巡査(日記には"ポリ"とルビがふってある)が制止に来た。騒ぎの首謀者ということで、運悪く手塚少年が連れて行かれそうになる。その時、ジグス(ジョージ=マクナマス著/横山隆一訳『親爺教育 ジグスとマギー』)が酒場で警官に連れて行かれるところを思い出して、何だか漫画みたいな気持ちになったという。
 別の友人(辻氏)が、手塚少年の手を取って、巡査から振り払い「手塚っ、早よ逃げろ」とやってくれたので、かわって、その友人が連れられていった。手塚少年は、何が何だかよくわからず、立ち尽くしていたところ、別の警官に人込みの中へ連れ込まれ、一発、殴られた。手塚少年は、末代までその巡査を恨みに思って、死んだらとり殺してやろうと、決心した、と書いている。
 巡査に中断された壮行会を再開し、終わったところで、駅長室へ、どかどかと乗り込んで行った。駅長は、顔色をかえて、廊下へ逃げ出した。しかし、手塚少年たちが帽子をとって、ペコンとお辞儀をしたので、急にニコニコして、長いお説教をした。その級友は、しばらくすると、許されて、ゲラゲラ笑って帰ってきた。

                              ヨシミツ 年譜>年譜の付録。その06について。    /ヨシミツ  16歳の時の、両腕の病気の時は、もうこれで、好きなマンガも描けなくなるのか、と手塚少年を絶望的にさせたそうです。この症状は、軽いものながら、その後2〜3年、同じ時期に出たようです。

 手塚少年のために、一生懸命、世話をした、お母さんのことを、手塚治虫は、感謝の気持ちで述懐しています。(両手が使えないので、下の世話もしたそうです)
今回の昭和20(1945)年の記事は、いずれも、手塚治虫の、当時の日記からの抜粋です。

 私としては、大阪駅での、級友の壮行会騒ぎの話が、とても印象に残りました。"青春"してたんですね。

 前回の、軍事訓練の教官の体罰といい、今回の警官の仕打ちといい、"権力"から受けた暴力が、手塚治虫の反権力の一面を形成したのかも知れませんね。(そう単純には言えないとは思いますが…)

                              ヨシミツ