年譜>その08 1946 /ヨシミツ
1946(昭和21)/18歳
〇デビュー作『マアチャンの日記帳』の連載が始まる(少國民新聞(大阪毎日小学生新聞) 1/4〜3/31)。原稿依頼のある1カ月半ほど前に、大阪毎日新聞社社長あてに「暗い世相に灯をともすのはマンガしかない。そんなマンガにぴったりの手塚治虫のマンガを採用せよ」という"乱暴な自己PR"を内容とする手紙を送っていた。原稿依頼のあった時は、その手紙が効を奏したと思っていたが、実は無関係で、まったくの偶然であった。
〇この頃、毎日新聞大阪本社文芸部には井上靖氏、山崎豊子さんらがいた。
〇父・粲が復員する(1月)。南方でマラリアにかかり、自宅で療養生活を送る。
別のところで、映画『ゆきゆきて、神軍』を観た感想とともに、手塚治虫は、出征中の父親について、次のように語っている(要旨)。
この映画を観て、したたかのショックを受け、話す言葉もない。父は、外ヅラの良い人間で、人に愛されて一生を終えたが、戦地にあっても、上官・部下に好かれていたらしい。主計少佐として8年間、最後の2年間はフィリピンの奥地にいた。
引き揚げてからのこと、朝食のあと、自分たちを相手に、戦地での逃避行のことを長々と話した。自分は退屈で、つまらなかった。その話によると、父は将校として、けっこううまい生活をしていたようだ。山奥の現地人の村へ迷い込んで、部下が野豚を捕まえた、と言って、持ってくる。いつも、父がいの一番で、たらふく食べた。豚だけは、いざという時、部下がうまく手に入れてきた、と父は言う。もしかしたら父は、とても恐ろしいことを言っているのかもしれない。食べたのが本当の野豚であったことを祈りたい。
太平洋戦争で最も悲惨な出来事は、こういったカニバリズムが常識化されてしまったことだろう。
ちなみに、ここでは父・粲の復員を、1947(昭和22)年としている。
〇再開された宝塚歌劇(『カルメン』、『春の踊り』)を観劇する。
この再開は、米軍将校クラブより大劇場が変換されたことによって実現したもので、『カルメン』は春日野八千代・深緑夏子のコンビが主演であった。手塚治虫は、座席券を購入するため、朝6時頃から並んだこともあったという。歌劇の曲を文字でメモし、自宅のピアノで伴奏した。
のちに手塚治虫は、当時、宝塚で男子生徒募集があったということを、なつかしく思い出している。
また宝塚歌劇再開前に、大阪梅田の劇場街で、戦後初のレビュー『ピノチオ』が上演された時にも、それを観劇している。その時、久々に見たラインダンスの感激は筆舌に尽くしがたかった、と言っている。
〇大阪大学医学付属専門部の校舎にも使われてた大阪YMCA(大阪・土佐堀)の講堂にピアノがあり、休み時間などに弾くことがあった。
ある日、手塚治虫が、モーツァルトの『トルコ行進曲』を弾いていると、米兵が入って来て、手塚治虫の演奏後、アリア『もう飛ぶまいぞ蝶々』(モーツァルト『フィガロの結婚』)で応える。米兵とは友人となり、アメリカのコミック雑誌をくれた。手塚治虫は、それをむさぼり読み、夢中で模写した、という。
〇この頃、街角で「マアチャン人形」が売られているのを見かけ、人気があるんだと、驚き、かつ喜んだ(当時は、原作者に無断で、キャラクター商品が作られていた)。
ヨシミツ
年譜の付録。その08について。 /ヨシミツ
いよいよ漫画家・手塚治虫のデビューですね。
自己PRの手紙については、戦後、さまざまなものが新しく再スタートするという時代の雰囲気の中、手塚治虫自身が若さにまかせて、思い切りよく出した手紙といった感じで、自身、微笑ましい思い出としてふりかえっています。
やはりショッキングなのは、父・粲が復員後、手塚少年に語った戦地での思い出話と、手塚治虫が、映画『ゆきゆきて、神軍』(昭和62(1987)年公開)を見ての感想のことです。
この映画については、私自身、見たことがなく、雑誌の記事で読んだだけです。奥崎謙三という主人公が、太平洋戦争に出征した元兵士などに対し、インタビュー(かなり手厳しい?)をする、というドキュメントだそうです。そして、その過程で、それまで語られることの少なかった、戦地での日本軍の暗部が暴露される、という内容のようです。
肉親の、しかも、自分の父に重ね合わせて、観なければならなかった、というのは、本当に、つらかっただろう、と思います。
戦後、再開された「宝塚」について、これも新しい時代の息吹きとして、鮮烈な印象で受けとめている様子が伝わってきますね。
ヨシミツ
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