年譜>その09 1946 /ヨシミツ
1946(昭和21)/18歳
〇『珍念と京ちゃん』/「京都日日新聞」(4/15〜8/3)、『AチャンB子チャン探険記』/「少國民新聞(大阪毎日小学生新聞)」(7/20〜10/20)を連載する。
〇大阪大学医学専門部文化祭を挙行(5月)。手塚治虫も積極的に参加する。
〇大阪大学医学専門部の男子学生と大阪府立女子専門学校の女子学生とで劇団「学友座」結成(6月)。手塚治虫も参加。
〇「関西マンガクラブ(KMC/顧問:酒井七馬、主催:大坂ときを)」第1回会合に出席する(8/20)。手塚治虫は、この時初めて、自分以外の漫画作家と会う。この席で、酒井七馬氏から長編漫画(『新宝島』)の単行本出版について話を持ちかけられる。
〇「輿論(よろん)新聞」の発刊と同時に『前世紀星』を連載する(秋頃)。同新聞は、大阪の赤新聞のひとつで、『前世紀星』は『ロスト・ワールド』の新聞版。毎日8コマ(当時の新聞漫画としては異例)で、主人公は敷島博士。この主人公は青年で、のちの『ロスト・ワールド』の主人公・ケン一が少年であったのと異なる。
手塚治虫は、『ロスト・ワールド』を1942(昭和17)年頃に描きあげて、友人の間で回し読みしていた。それが、なぜこの"四流新聞"が知って、転載させろ、と言って来たかは(そのへんの事情は)もう忘れた、と振り返っている。
主人公が青年であったこともあり、『前世紀星』では、敷島博士と「あやめ」という植物人間(植物の人間という意)が相愛の関係となり、「あやめ」はついに妊娠する。すると「あやめ」は、もう人間の姿で居ることは出来ない、と言い、水辺に座ったきり、どんどん根が生えて、植物に変わっていく(このあたりは、テレビアニメーション『バンダーブック』ラストシーンの元ネタ)。最後には子どもを生んで、それがキノコ(もじどおり、木の子)であって、と物語が途方もない方向へ展開するところで、連載打ち切りとなった。理由は紙不足から、新聞がタブロイド版に縮小したからであった。
〇桂春団治の依頼を受け、ポスターを描く。手塚治虫は、その時のことを次のように振り返っている(要旨)。
ある日突然、関西落語界の重鎮・桂春団治が、手塚家を訪れた。手塚治虫が漫画の連載をしている、ということを聞いてやって来たらしい。師匠からは、今度、戎橋(えびすばし)小劇場で関西落語界のお祭りをすることになった。そこで、おたくにポスターをお願いしたい、という申し出であった。出し物は『二人羽織』、『粗忽(そこつ)の釘』、『明烏(あけがらす)』。まだ、漫画家として駆出しであった自分は冷汗もので、師匠の舞台写真を借りて、長い時間、顔のスケッチをした。出来上がったポスターは、ディズニーの影響を受けていたので、アメリカ人の描いた歌舞伎漫画のようになった。それでも「おおきに」と言ってくれた。
そのおり、師匠から、良い声だと誉められ、高座に向いた声なので落語をやってみないかといわれ、5〜6度ばかり、師匠のうちへ通ったことがある。しかし、自分は、平素、東京弁を使っていたので、関西弁の関西落語の味は出せなかった。
ヨシミツ
年譜の付録。その09について。(略)
ヨシミツ
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