年譜>その10 1947〜48    /ヨシミツ 1947(昭和22)/19歳
〇『新宝島』が発売される(育英出版 4/1)。40万部を売る。

〇「関西マンガクラブ(KMC)」の同人でもあった南部正太郎氏が東京進出したことに刺激を受け、手塚治虫も上京を決意する。南部正太郎は『ヤネウラ3ちゃん』で人気の作家であった。
 またこの年、手塚治虫、南部正太郎氏、武田将美氏の3人で、スリー・マンガ・クラブを作っていた。

〇上京して、講談社を尋ね、『少年クラブ』への掲載を希望するが、断られる。

〇東京上野の自宅まで新関健之介氏を尋ねる。デッサンの勉強をするようになど画技についてのアドバイスを受ける。新関健之介氏は『カバ大王さま』などで著名であった。

〇東京桜台の自宅まで島田啓三氏を訪ねる。手塚漫画の持っていた新しい形式に対して、多くのコマ数をもちいる点が、漫画の内容を散漫なものにしないかという危惧を指摘される(後年、手塚治虫自身が、そのように回想)。島田啓三氏は『冒険ダン吉』の作者。

〇漫画映画制作助手募集の貼り紙を見て、小さなアニメスタジオに行くが、断られる。

〇「新生閣」で、よい返事をもらい、のちの『タイガー博士の珍旅行』(1950(昭和25)4月〜12月)連載につながる。また東京逗留資金や帰りの旅費のため『怪人コロンコ博士』を同盟出版社に掲載(10/5)。

〇宝塚少女歌劇機関誌(『歌劇』、『宝塚クラブ』)のカットなどの仕事をする。その頃、淡島千景さん・乙羽信子さんが若手で活躍していた。

〇医学専門部隠し芸大会で、ピアノ独奏をし、個人一等賞を受賞(11月)。

〇この頃、アメリカ映画『此の虫十万弗(ドル)』、『幽霊紐育(ニューヨーク)を歩く』などを見る。のちの作品に影響を受ける。
1948(昭和23)/20歳

〇『地底国の怪人』/不二書房(2/20)を発表。キャラクター「ハム・エッグ」登場。『新宝島』は酒井七馬氏との合作、続く『火星博士』/不二書房(1947(昭和22)9/5)は中学時代に描いたもののリメイクであるから、ストーリー漫画の実質的なデビュー作と手塚治虫自身が位置づけている。
 しかし、別のところでは、『新宝島』以前に『キングコング』という"ドタバタ冒険もの"を描いた、と言っている。これは出版社の都合で、出版の順番が逆になったものである。この『キングコング』を描いた時、映画『キングコング』を見たこともなければ、「キングコング」というのが固有名詞であることすら知らず、大きなサルは、みな「キングコング」と呼ぶんだと思っていた。ストーリーは、映画『キングコング』の前半部を引き伸ばしたような内容で、「キングコング」がなぜ巨大化したかという点にページをさいているという。

〇『ロスト・ワールド(前世紀)/地球編』、『同/宇宙編』/不二書房(12/20)を発表。40万部の大ヒット作となる。

〇横井福次郎氏に会い、厳しい批評を受ける。横井福次郎氏は『ふしぎな国のプッチャー』などで人気を博していた東京の漫画家。家族が明石に疎開していたので、関西を訪れていたもの。
 手塚治虫は『ふしぎな国のプッチャー』について、次のようにのべている(要旨)。
 タイトルを「未来の国」とせず「ふしぎの国」としたのは、"サイエンス"に拒否反応を示す読者への気づかいのようで、おもしろい。でも内容はあくまでSFで、ロボット・透明マント・月世界探険などが登場する本格的未来ものだ。
 それまでの日本の漫画のロボット(ブリキ製のような、ギクシャクと動く)ではなく、見かけ上、人間とそっくりなロボット少年・ペリーが登場する。典型的なアンドロイド(ただし、当時、この言葉はなかったが)だ。自分も同じ頃『火星博士』で羽のはえた女性ロボットを描いたが、泣きも笑いもするアンドロイドで、いわば「アトム」の原型である。

〇この頃、医者になるか漫画家になるかで進路を決めかねていた手塚治虫は、そのことを母親に相談する。一緒に連れ立って映画を見に行った時のことであった。母親は、手塚治虫に対して、どちらが好きかを問い、漫画だ、という答を聞くと「じゃあ、好きな道を行きなさい」と言った。後年、手塚治虫は、自分が漫画家になったのは、母のこの言葉だった、と語っている(要旨)。

〇ソ連漫画映画『せむしの仔馬』を見て、強いショックを受ける。手塚治虫の『ファウスト』/不二書房(1950(昭和25)1/15)のイメージのヒントとなる。

                              ヨシミツ