年譜>その11 1949〜50 /ヨシミツ
1949(昭和24)/21歳
〇『メトロポリス(大都会)』/育英出版が発表される(9/15)。
この作品について、手塚治虫は、次のように述懐している(要旨)。
「メトロポリス」は固有名詞として、ある巨大都市(ニューヨークのイメージ)に名づけたものだ。映画『メトロポリス』についてはタイトルだけを知っていた程度で、何だか、語呂がかっこよかったので覚えていた。『スーパーマン』に登場する「メトロポリス」とは偶然の一致である。
「アトム」のイメージが「スーパーマン」じゃないかとよく言われたが、「アトム」の場合はむしろ「マイティ・マウス」の方だろう。「マイティ・マウス」は「スーパーマン」をもとにしているそうだから、「スーパーマン」は「アトム」のおじいさんに当たる。「スーパーマン」のイメージというなら、『メトロポリス』に登場する人工人間・ミッチイの方だろう。
〇この頃、大阪松屋町(まっちゃまち)の玩具店が、赤本と呼ばれる漫画本の取り次ぎをしていた。そういう店が、当時、2〜30軒あったという。手塚治虫は、松屋町をよく歩き、店の主人や番頭とも顔なじみになった。"売れっ子"の部類に入っていた手塚漫画は、卸値六掛け半の取引が常識のところ、七掛けであったという。友人や親戚に配るために、自分の新刊を2〜30冊、卸値で買ったこともあるという。手塚治虫自身が聞いた、松屋町の評判は、手塚さんのは売れるけど高い、だから玩具と一緒には売れない。売れているけど、あまり描かない作家だ。学生で、どうせアルバイトだからだろう、といったものであった。
1950(昭和25)/22歳
〇東京文京区音羽弓町の「学童社」を訪ね、加藤謙一氏に会う。「学童社」は雑誌「漫画少年」を発行していたが、手塚治虫はそのことを知らず、石田英助氏のインタビューをとるために訪問する。この時、『ジヤングル大帝』の連載が決まる。なお加藤謙一氏は、公職追放の対象になる心配があったので、出版社兼自宅の2階に隠れるように仕事をしていた。出版の仕事は、表向き、夫人を社長としていた。
ちなみに加藤謙一氏は、かつて「講談社」の名主幹として「少年クラブ」や「キング」を手がけ、吉川英治氏、田河水泡氏を育てた人物。手塚治虫は、加藤謙一氏との出会いを"お互いの人生をかえる運命の日"と言い、それは次のような理由からだ、と述懐している(要旨)。
"関西でくすぶっていた一赤本絵描き"の自分を中央の檜舞台に登場させ、『ジャングル大帝』、『火の鳥』という2本のライフワークを世に送りだす場を提供してくれたこと。反対に自分の執筆の遅れから、それまで順風満帆であった「漫画少年」の発売日を狂わせて、多大の損害を与え、閉鎖に追い込んだ責任の大半は、自分にあること、の2つである。
そして加藤謙一氏ついて「私にとって、実の父親以上の存在であり、人生の大恩人と誰にも断言できる」と言っている。
ヨシミツ
年譜の付録。その11について。 /ヨシミツ
今回は、いよいよ、加藤謙一氏との出会いですね。本文にありますように、手塚治虫が、父ともしたう人です。
ところが、両者の最初の出会いは、少なくとも、手塚治虫の方は、その人物を詳しく知らなかったというのですから、おもしろい話です。
文中にあります「公職追放」というのは、敗戦後、GHQによって、戦前・戦中の"戦争協力者"を、社会の「責任あるポスト」から追放した政策で、政治家や国粋団体幹部ほか、経済人や出版界の人物も、その対象になったものです。
加藤謙一氏も、戦前の出版界で活躍した人だったので、その対象になりそうだったということなのでしょうね。
大阪の松屋町って、今でも、玩具の問屋さんが集まってるところですよね。名前だけなら、私も聞いたことがあります…。
手塚治虫の青春と大阪松屋町…、このように深い関わりがあったんですね。
ヨシミツ
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