年譜>その12 1950 /ヨシミツ
1950(昭和25)/22歳
〇『ジヤングル大帝』/「漫画少年」の連載が始まる(11月〜1954(昭和29)4月)。
編集長・加藤謙一氏から、作品の感想について、詳細な手紙を受け取る。ドンガ族の宴に、パンジャが躍り込んで来た時、ハム・エッグが「どうやら、約束が早く済みそうだ」と言う場面があった。加藤謙一氏は、手紙の中で、ハム・エッグの、この言い回しが、今までの少年漫画になかったシャレた言い回しだ、と称賛した。手塚治虫は、思いもよらない箇所での指摘に、あらためて原稿を見な直した、と言っている。
また手塚治虫は「学童社」時代のことを次のように振り返っている(要旨)。
音羽弓町の「学童社」は、崖っぷちの木造家屋で、玄関の右手に階段があり、中央奥には机がならび、左は二畳半の畳の間で、編集長の宮前氏が寝泊りしていた。2階は二間あって、日当たりがよかった。『ジャングル大帝』第3回は、間に合わなくて、ここで描いた。
おやつの時間になると、編集部員の中野氏たちは、春日町交差点の煮あずき屋へ行った。ゆであずきなのに、煮あずきと言うところが、ユニークである。水道橋から神保町へ行く途中のミルクホールにも通った。当時でもミルクホールは死語に近かったが、この店だけは使っていて、それがまた皆のお気にいりだった。
〇「東京児童漫画会(児漫長屋)」の結成の集まりに顔を出し、のちに入会する(1952(昭和27)年)。島田啓三氏を顧問に、馬場のぼる、福井英一、古沢日出夫、太田じろう、山根一二三、入江しげる、根岸こみち、松下井和夫、秋玲二、瀬尾太郎、茨木氏、山口氏の各氏ら、30数名の参加があった。
〇「光文社」から「少年」の連載の依頼を受ける。
新連載について、東京と宝塚の間でやりとりがもたれる。手塚治虫が、最初に送った原稿は、天岩戸をテーマにしたもので、天岩戸伝説を日食に仕立てた読み切りであった(タイトルは『天岩戸』。この着眼は、のちの『火の鳥』に受け継がれる)。主人公は天照大神であった。少年漫画としては毛色が変わりすぎている、神話を漫画にして、しかも茶化すとは、言語道断です(後年、手塚治虫は、戦後5年たっても、まだそういう時代だった、と振り返っている)、残念ながら採用できない、との返信に、科学の進んだ架空の国の話を提案する。と同時にタイトルを『アトム大陸』とするが、「大陸」という言葉が大きすぎるということで、最終的に『アトム大使』と決まる。
『アトム大使』の予告が「少年」誌上に載る。予告掲載だけで、大反響となる。
〇原稿の締切に追われた手塚治虫は、病院の看護婦たちにベタ塗りなど、執筆を手伝ってもらうこともあった。宿直室で、原稿執筆中のところを、見つかり、恩師から説教を受ける。「戦災で疲弊している子どもたちのために、その精神的な糧となるようなものを描くことは、広い意味で医療とも言える。しかも、君にしか出来ないことでもあるから、医者になるより漫画になり給え」と言われる。手塚治虫は、その言葉を、現在でも大きな意味がある、とのちに講演している(要旨)。
〇「毎日放送」で『手塚治虫アワー』が連続放送される。『ロスト・ワールド』、『メトロポリス』がドラマ化される。
ヨシミツ
年譜の付録>その12について。 /ヨシミツ
今回は「学童社」時代の思い出や、「少年」誌上での連載(のちに『鉄腕アトム』につながる)の話が登場します。
『ジャングル大帝』を執筆する手塚治虫を暖かく見守っている加藤謙一氏や、当時の「学童社」の雰囲気を、手塚治虫は、なつかしく思い出していますね。
「少年」誌上での連載について、日本神話をモチーフにした物語を提案したこと(のちの『火の鳥』に通じる)や、『アトム大陸』の「大陸」という最初の命名とを考えあわせると、初期の手塚治虫が指向したマンガが「大河」モノであったということが、よくわかります…。
漫画家への道を勧める恩師の言葉に、「戦災で疲弊している子どもたちのために…」という一節があります。時代を象徴している言葉であるとともに、子どもたちのために、ということが強く意識されていることに注目したいです。
最後の「毎日放送」云々ですが、この年「毎日放送」は、まだ、本放送が始まっていなかったと思うんですが、どうでしたでしょう。(このことは、このあと、手塚治虫の就職エピソードのおりにも、触れることになりそうです…)
どなたか、ご存じの方があれば、フォローお願いします※。
※これについては、次のやりとりがありました。
【Rさん】から
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
えーと、資料はどっかにあるんですが、探すのが面倒だったので毎日放送のページにいって見てきました(笑)
毎日放送
設立 昭和25年12月27日 (当時は 新日本放送という)
昭和33年6月1日に 毎日放送に変更
開局 ラジオ 昭和26年9月1日
TV 昭和34年3月1日
ということですので、25年から26年は新日本放送という名前で試験放送していた可能性が高いですね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ヨシミツ から
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
どうも、ありがとうございます。
手塚治虫のアナウンサー入社のことで、先々月、直接「毎日放送」にTELしまして、「昭和26年9月1日 ラジオ開局」は、つかんでました。しかし「昭和25年12月27日 設立」までは、知りませんでした。
「年譜 その12」中、「毎日放送」で『手塚治虫アワー』云々は、「朝日ジャーナル」別冊に載ってた記事が、その出所です。
そこには、試験放送とも本放送とも書かれてなかったんですが、昭和25年のこととして載ってましたので、「昭和25年12月27日 設立」なら、試験放送の可能性・大ですね。
それにしても、設立した日を含めて、その年(昭和25年)は、5日間しかないので、『手塚治虫アワー』は、その短い間の、どこかが第1回放送ということになる訳ですね。
これは、これで興味深いですね…※※。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
※※この結論は「年譜の付録。その13について」と「年譜の付録。その12と13について」を参照ください。
ヨシミツ
|