年譜>その13 1951       /ヨシミツ 1951(昭和26)/23歳
〇『来るべき世界/前編』/不二書房(1/10)、『同/宇宙大暗黒編』/同(2/20)が発表される。なお『来るべき世界』のラストシーンの太陽の部分は、まだ渇き切らないうちに、手塚家で飼っていた猫のムックが踏んでしまい、紙を貼って書き直したため、へんな感じになった。

〇「漫画と読物」に『新世界ルルー』を連載する(1月〜1952(昭和27)2月)。この作品についてはモンテクリスト伯とパラレルワールドを組み合わせたものを構想し、主人公の少年には、時間を止める超能力を持たせた。

〇大阪大学医学専門部卒業試験(2〜3月)を終え、同専門部を卒業する(3/24)。引き続き1年間のインターン生活に入る。

〇「新日本放送(現大阪毎日放送)」のアナウンサー採用試験を受験する。合格し、入社が決定する。ただし2日ほど勤めて、辞めた。手塚治虫は、それについて、次のように述べている(要旨)。
 大阪大学医学専門部の卒業を控え、自分の将来を考えた。当時は、戦地から軍医が引き揚げて来て、医者は飽和状態であったので、卒業したての"青二才"が医者稼業ですぐに食えるとは思われなかった。そのまま大阪大学病院の医局員になる方法もあったが、その場合は、当分の間、サラリーなしの無給医をやらなければならない。では無医村へ行くのはどうかと思っていたところ、都合よく四国の剣山のふもとに、その話があった。ところが、町へ出るのにバスと汽車で半日かかると聞いて、やめた。
 ちょうどその頃、民間放送(ラジオ)の誕生の頃で、大阪阪急デパートにも「新日本放送」の看板が出た。大学へ通うのに毎日見ていて、内心、自分には自信があると思っていた。それは、自分の家庭が標準語を使っていて、自分も標準語を話せるからだ。ある日「アナウンサー募集」の貼り紙を見つけて、入社試験を受けた。面接と台本の朗読と漢字テストが、すべてであったと覚えている。そして合格してしまった。しかし、やはり性格にあわなかったのか、医者の方がまだ将来性があると思い直して、2日ほどで辞めた。
 ちなみに1971(昭和46)年の「毎日放送」社内報(設立20周年)に手塚治虫がメッセージを送っている。

〇「少年」に『アトム大使』の連載が始まる(4月号)。当初は、あまり人気が出なかった。長編単行本で発揮できたストーリー性の強みも、1回数ページの雑誌連載ではわかりづらくなるなど、生かしきれず、悩み模索しながらの執筆であった。

〇「少年画報」に『サボテン君』を連載する(4月〜1953(昭和28)3月)。

〇ディズニー漫画映画『白雪姫』、『バンビ』などをくり返し観る。『バンビ』に惚れ込んだ手塚治虫は、「学童社」の編集者を誘ったり、映画の中の動物の動きを模写して勉強したり、あるいは観客の反応などを観察したという。『バンビ』を観て、当時、執筆中であった『ジャングル大帝』の構想にも、多大の影響があった。

〇「冒険王」に『冒険狂時代』を連載する(12月〜1953(昭和28)8月)。

〇「おもしろブック」に『ピピちゃん』を連載する(12月〜1953(昭和28)5月)。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その13について。    /ヨシミツ  今回は、何といっても、新日本放送(現大阪毎日放送)のアナウンサーに就職した話が、ポイントですね。

 宝塚にいて、医学専門部の学生であった頃、手塚治虫は、一方で漫画家としてデビューをはたし、他方で、将来の職業を模索している、というような話がいくつか出てきます。

 前回の書き込みで、【Rさん】にも調べて頂きましたとおり、新日本放送のラジオ放送開始は、1951(昭和26)年9月1日で、第一声は、その日の正午のことだったそうです。

 実は、このあたりのことを、直接、大阪毎日放送の視聴者センターというところにTELして、詳しく聞きました。とても、丁寧に応対してくれましたよ。(20周年の社内報のことも、その時、教えてもらいました)

 わが国の民放ラジオ放送第1号は、名古屋の中部日本放送(CBC)です。放送開始は、1951(昭和26)年9月1日で、新日本放送と同じ日なんですね。けど、CBCは、午前9時だったか、午前中に第一声がオンエアされたので、民放第1号を名乗っているようです。

 ちなみに、中部日本放送の場合、局のサインも「JOR」です(ということは、大阪毎日放送は、JOR…)。この時点で、手塚治虫は人気漫画家として、少しは名が知れていたでしょうし、第一、前回の書き込みで触れましたように、昭和25年に『手塚治虫アワー』という番組を放送しているのですから、新日本放送の人事担当者も、手塚治虫のことを知っていたと思うんですが…。

 そのへん、どうだったんでしょう。もう一度、大阪毎日放送視聴者センターで聞いてみようかしらん。

 ところで、アナウンサーの話題が出て、学生劇団のこと、落語の弟子入りのことと合わせて、学生時代の3大エピソードが出揃いましたね。

 あと、製薬会社のPRをしたことがある、とも書いてますが、私の調べた範囲では、詳しく書かれたものを見つけられませんでした。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その12と13について。 /ヨシミツ  その後、いろいろ調べてみました。

 で、「年譜」その12、13、それから「付録」の書き込みに、訂正しなくちゃいけないところなど出てきましたので、UPしておきます。

 「年譜/その12」の、最後の〇、「毎日放送」で『手塚治虫アワー』が放送された云々ですが、これは、少なくとも、1951(昭和26)年以降の可能性が出てきました。
 ですから、次のような修正をお願いします。

(1)「年譜/その12」の、最後の〇を削除してください。
(2)「年譜/その12」の、最後の〇の文章の頭に、『この頃』を挿入して(この頃「毎日放送」で『手塚治虫アワー』が…)、「年譜/その13」の末尾に加えてください。

 大阪の毎日放送視聴者センターに問い合せたところ、新日本放送の試験電波は、1951(昭和26)年7月8日22:00〜22:30 が最初の記録だということでした。ということは、1950(昭和25)年中の電波送信はありえないことになって、試験放送中に放送されたという点も含めて、『手塚治虫アワー』が、1950(昭和25)年にドラマ化されたという事実はなくなります。

 この事項は、「朝日ジャーナル別冊1989年4月20日号/手塚治虫の世界」の中にありました。見ると、資料出典は手塚プロ資料室になっていましたので、この際だからということで、直接、問い合せてみました。
 すると、つぎのような返答を頂戴しました。『手塚治虫アワー』のことが、1950(昭和25)年ではないということは、すでに、手塚プロ資料室の方でも確認されているとのこと。つまり「朝日ジャーナル」に書かれたことは、その後、誤りであることがわかったということです。
 さらに、では『手塚治虫アワー』放送はいつの年かと聞きますと、それについては、今のところ、よくわかっていない、ということでした。

 この『手塚治虫アワー』が、1950(昭和25)年に放送された、という話は、手塚治虫自身の記憶にもとづくものだそうで、そもそもは、氏の記憶違いが、発端のようです。

 ところで、『手塚治虫アワー』の放送が、手塚治虫の毎日放送アナウンサー受験のあとのことだとしても、氏の受験(1951(昭和26)年)の時、毎日放送の人事担当者は、手塚治虫のことを知っていたのではないか、という疑問が残ります。

 それで、そんな感じのことを聞いてみたのですが(毎日放送、手塚プロに)、結局、よくわかりませんでした。

 最後に「年譜」とは直接関係ないんですが、中部日本放送の本放送開始は、午前9時ではなくて、午前6時30分でした。

                              ヨシミツ