年譜>その15 1953 /ヨシミツ
1953(昭和28)/25歳
〇この頃、雑誌の別冊付録を精力的に執筆する。『太平洋X地点』/「冒険王」1月号、『はりきり弁慶』/「おもしろブック」2月号、『レモンキッド』/「冒険王」5月号など。
〇ライバルであった福井英一氏が、手塚治虫の手がけた時代物「弁慶」(『はりきり弁慶』のことか)を「やりやがったな、うめぇ」とほめる。このことが手塚治虫の耳に入り、強く印象に残る。福井英一氏は、サンフランシスコ講和後の日本にあって、武道を正面から扱った漫画『イガグリくん』の連載を始めていた(「冒険王」(1952(昭和27)3月号))。この『イガグリくん』は「熱血感動漫画」といわれ、大きな人気を得ていた。
〇「漫画少年」編集部(高橋氏)の紹介で、東京豊島区椎名町のアパート「トキワ荘」へ引っ越す。
以前の下宿では来客が深夜に及ぶなど階下に迷惑がかかること、部屋が2階の角部屋で、外から直ちに在宅がわかってしまい都合が悪いことなどが、転居の理由であるという。
また手塚治虫が西武線沿線を希望したということもあった。希望した理由を、手塚治虫は、西武線沿線には児童漫画の巨匠・島田啓三氏の住む桜台があり、「東京児童漫画会」のメンバーが多く住んでいて、あこがれの地であったからだ、と言っている。
手塚治虫は初めて「トキワ荘」に行った頃を、この年の夏か秋の頃といい、「漫画少年」編集部・加藤宏泰氏と一緒だったという。車などめったに通らない当時の椎名町の「トキワ荘」をずいぶん静かなところにあるな、と思い、ここも、どうせ2〜3年で出るつもりでいたので、ほとんど家財道具を買い込まず、フトンと必要最低限の日用品をそろえただけだった、と振り返っている。
印象に残っているのは、押入のふすま絵のデザインだった。それは丸い供奴(ともやっこ)が無数に踊っているもので、奴であるということを、毎晩しげしげとながめ、ようやく理解したという。のちに「北斎漫画」の中の奴を描いたものだと知った。
その後、同じく「漫画少年」編集部の紹介で、寺田ヒロオ氏が引っ越してくる。手塚治虫が「トキワ荘」に住んでいた頃の、漫画家の同居人は、寺田ヒロオ(テラさん)氏ひとりである。寺田ヒロオ氏は『スポーツマン金太郎』などの作者として有名。手塚治虫の部屋がいつも雑然としていたのに対して、寺田ヒロオ氏の部屋は、きちんと整理されていて、うらやましかったという。
当時、手塚治虫は、月の半分を宝塚に帰っていたり、旅館での仕事が多かったので、「トキワ荘」には週に1〜2度帰るだけであった。「こんな無駄なスペースはなかったわけだ」と述懐している。従って、寺田ヒロオ氏とあまり、会ったことはなかった。
当時は月刊誌の仕事が中心だったので、一通り済むと月末の1週間は、漫画家にとって天国のようだった。そこで西武線沿線の漫画家たちはこぞって盛場へ繰り出した。場所は決まって池袋で、まだ「赤線」や闇市の名残りがあった。
池袋東口に「ホワイトベアー」というキッチンがあった。そこの名物がバナナ入りカレーで、普通のカレーを甘くして、スライスしたバナナが入っていた。まともなカレーを食べている者なら、みんな敬遠する。『まんが道』の中で、藤子不二雄両氏が、手塚治虫に「ホワイトベアー」を紹介されたと述べているが、バナナ入りカレーを食べさせたかまでは記憶にない。
自身では、自分はトキワ荘「前史」に当たる、と言っている。
〇『罪と罰』を東光堂より刊行する(11月)。これが、手塚治虫の大阪での最後の仕事になる。
〇この頃、夏の炎天下、大阪の末吉橋(松屋町)から桃谷駅まで、酒井七馬氏ほか、若手漫画家たちと歩く。
ヨシミツ
年譜の付録。その15について。 /ヨシミツ
今回は、いよいよ「トキワ荘」への引っ越しですね。
「トキワ荘」が、若手漫画家の集まるところとなるのは、手塚治虫が「トキワ荘」を出て、別のところへ引っ越そうかという頃だったんですね。ですから、手塚治虫自身は「前史」だと言っていますね。
しかも、拠点を東京に移したとはいっても、宝塚と東京と半々の暮らしだったようです。
国鉄の特急「こだま」が登場したのは、1958(昭和33)年のことですから、この頃は、まだ「つばめ」だったのかな。
東京−大阪が、軽く半日以上かかっていたはずです。
デビューしたての頃、仕事の中心は、月刊誌でした。そのため、日程的に、いくらか余裕もあったようで、仲間と連れ立って、飲み歩いたみたいですね。
「赤線」や闇市の名残りがあったというのですから、まだまだ、敗戦後のにおいが残っていた、ということですね。
ヨシミツ
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