年譜>その16 1954 /ヨシミツ
1954(昭和29)/26歳
〇この頃、雑誌の別冊付録を精力的に執筆する。『地球1954』/「冒険王」1月号、『世界を滅ぼす男』/「冒険王」10月号。
〇手塚治虫が『漫画教室』/「漫画少年」2月号誌上で、福井英一著『イガグリくん』のコマ割りについて、中傷めいた批評を下す。そのことを池袋の飲み屋で、当の福井英一氏に詰問される。次号の『漫画教室』に、それへの謝罪をこめた回答的内容を載せる。
後年、手塚治虫は、福井英一氏の筆勢を無意識にうらやんでいた結果が、あのようなことを描かせたと回想している。
〇福井英一氏死去。生前『赤胴鈴之助』第1回を完成していた。
葬儀に参列した手塚治虫は、深い悲しみを感じたとともに、どこかに、彼との骨身を削るような競争をしなくともよくなったということを安堵する気持ちがあった、と後年回想している。
なお『赤胴鈴之助』の第2回以降の連載は、武内つなよし氏が引き継いだ。
また福井英一氏が、手塚治虫のすべての漫画を買いそろえていた、ということを別の漫画家から聞く。
〇『ジャングル大帝』の連載が終了する(4月)。最終回の執筆には、藤子不二雄A氏が協力している。またこの時、仕事部屋にはチャイコフスキー『悲愴』が流れていたという。
〇手塚治虫が執筆のため、カンヅメとなる宿舎の好みは、地下鉄京橋駅付近の地下ホテルであった。それは時間とともに玄関のシャッターが降り、部屋の窓を開けても、コンクリの壁が見えるようなホテルであった。
〇当時の編集者はどちらかというと飄逸たる文士風の人間が多く、個性も強く、打てば響くような風格があったと、回想している。
〇「漫画少年」で『火の鳥/黎明編』の連載が始まる(7月〜1955(昭和30)5月)。
手塚治虫は、この『火の鳥』について、次のように言っている(要旨)。
ストラビンスキーのバレエ『火の鳥』の幻想的・神秘的なロマンに感激し、ソ連アニメ『せむしの仔馬』の中の火の鳥のシーンを見て、西洋のフェニックス、東洋の鳳凰をキャラクターとする漫画を着想した。
また医学生時代に患者の臨終に接し、周囲の悲壮感とは別に、一種崇高な気分にうたれ、昆虫をもとめて山野を歩いた時に、小動物の生死の様を見て、自然の摂理の中で、当然迎えた宿命を甘んじて受けているような不思議さを感じた。宇宙にみなぎる生命は、もっと巨大なある支配力の一部ではないかという気がし、この摂理のもとで精一杯生きてゆくものたちへの賛歌を『火の鳥』でうたいあげようと思った。
また別のところでは、理論物理学の「人間性原理」という考え方に触れながら、次のように言っている(要旨)。
我々人間が存在するから、宇宙が存在するのだという理論があり、あらゆる物理学上の問題を人間本位に考える。あまりにもエゴイスティックで、他の生命を差別しすぎているのじゃないか、と首を傾げたくなる。『火の鳥』は、そんなエゴに対する風刺でもある。
物語の中で「火の鳥」が、生きがいについて、人間に説く場合、カゲロウやアリを引き合いに出すことがある。カゲロウのような、ほんの数日の寿命の生きものでも交尾と繁殖という、重要な仕事を全うし、それが永遠の生きがいにつながる。百年生きる人間でも、同じ生きがい。生命の重さはすべて同じなのだ、と「火の鳥」は説く。自分は、人間も他の生きものも生命の存在としては全く平等だ、と言いたいのだ。
ヨシミツ
年譜の付録。その16について。(略)
ヨシミツ
|