年譜>その18 1956〜57    /ヨシミツ 1956(昭和31)/28歳
〇「少女クラブ」に『リボンの騎士』(1月連載終了)にかわる連載として、『火の鳥/エジプト編』の連載が始まる(5月〜10月)。

〇「おもしろブック」別冊付録として「ライオンブックス」が始まる(8月〜1957(昭和32)7月)。『来るべき世界』、『緑の猫』、『宇宙空港』、『白骨船長』など発表。

1957(昭和32)/29歳
〇漫画の原稿を執筆するカンヅメ先の宿舎に九州を選び、飛行機で九州福岡へ飛ぶ。「西日本新聞夕刊」に『黄金のトランク』(1/4〜10/16)を連載し、一度、九州で打ち合せをするよう勧められていたのがきっかけだった。しかし、後年、このようにも書いている(要旨)。
 編集者から逃れるため、旅館へ雲隠れを考えたが、都内の旅館には、手塚治虫を泊めると、編集者からの電話でたいへんだということが知れていたので、満員です、と断られた。じゃあ、関西の宿へ行こうということで、京都五条の旅館にとじこもった。そして、そこから出来上がった原稿を東京のA出版社に送った。A社にたまたま来ていたB出版社の人間が、エレベーターの中でA社の編集者が手に持っていた封筒の住所を見て、京都の旅館をつきとめた。手塚治虫は、さらにすきを見て大阪へ逃げ、そこからさらに九州へ飛んだ。行き先が九州であったのは、『火の鳥』連載のため阿蘇を見ておきたかったからだ、という。その際、執筆の手伝いを、九州漫画研究会の松本零士・高井研一郎・井上智・大野ゆたかの4氏に依頼する。途中2度ほど旅館を変えながら、10日間ほどのことだった。

〇この仕事を終え、手塚治虫は、真冬の阿蘇へ足を伸ばしている。

〇この頃、配偶者を求める、自分の思いが、無意識のうちに『旋風Z』/「少年クラブ」(1月〜1958(昭和33)6月)のジェットに表れてしまったのではないか、とのちに回想している。

〇この頃、マネージャーを採用、アシスタント制を導入して、執筆の効率化をはかった。初代マネージャーの今江氏は、新関健之介氏のところでアシスタントの経験があり、漫画に理解のある人だった。

〇渋谷区初台に引っ越す(春頃)。「並木ハウス」が手狭となったので、一軒家を借りることにする。1階の応接間に雑誌の編集者が待機して(泊まり込んで)、手塚治虫とアシスタントは2階で仕事をした。両者の間をマネージャーが往復した。

〇この頃、会津若松から笹川ひろし氏が上京し、手塚治虫のアシスタントとなる。この上京は、手塚治虫に送った作品を評価され、声をかけられたもの。最初に手伝った作品は『荒野の弾痕』/ライオンブックス(7月)という西部劇であった。制作途中、南北戦争時の南軍の服装を調べるために、手塚治虫と笹川ひろし氏は連れ立って映画館に行く。
 笹川ひろし氏は、のちに雑誌でデビュー、やがて「竜の子プロ」に所属して、アニメの道に進む(手がけた作品は、『おらあグズラだど』、『タイムボカンシリーズ』、『ハクション大魔王』など)。

〇この頃、新潟から月岡貞夫氏が手塚治虫の誘いで上京、アシスタントとなる。彼はディズニーファンであり、実家の映画館でディズニーアニメがかかる時など、そのフィルムを見て、コマの研究を進めていた。手塚治虫から、アニメの才 を認められ、その方面で活躍するようになる(手がけた作品は、『狼少年ケン』など)。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その18について。    /ヨシミツ  1957(昭和32)年の九州雲隠れ事件の話は有名ですね。ところが、それを回想する手塚治虫の話に、ちょっとずつ違いがあるようで、今回の年譜のようなまとめになりました。

 その時、阿蘇山に足を伸ばしたのは「火の鳥」執筆のためとあるので、クマソ国の火の壺は、どうやら阿蘇山のことのようですね。
 その関連で、私は、「火の鳥」のヤマタイ国は、北九州説だったのでは…、と推察しています。

 ちなみに、真冬の阿蘇山では、同行した編集者と猛烈な吹雪に会いました。そこで、手塚治虫は、茶目っ気半分で、「自分は、ここで遭難してしまうので、連載の続きなどをだれそれに頼む」、なんて"遺言"を語ったそうです。

 また、続々と、手塚治虫を支えるスタッフが登場してきます。後年、各方面で活躍する人たちですね。

                              ヨシミツ