年譜>その19 1957 /ヨシミツ
1957(昭和32)/29歳
〇「東映映画」の渾大坊五郎・白川大作両氏の訪問を受け、手塚治虫の『ぼくのそんごくう』/「漫画王」(1952(昭和27)2月〜1959(昭和34)3月)を原作として「東映動画」で、長編アニメーションを作りたいという話をもちかけられる。
この話に手塚治虫はふたつ返事で快諾し、「東映動画」の嘱託となった。
ちなみに渾大坊五郎氏は『鞍馬天狗』のプロデューサーとして、当時、著名であったし、白川大作氏は、のちに演出企画に腕をふるった。
ところで、手塚治虫は、この「東映動画」への嘱託としての入社を、自身の数少ない「サラリーマン体験」というふうとらえ、次のように振り返っている(要旨)。
1年半ほど「東映動画」からサラリーをもらい、他のスタッフと机を並べて、仕事に励んだ。といっても、当時すでに漫画雑誌の注文を山ほど抱えていたので、末期になるととかなりルーズな出勤であった。
会社勤めをして、何よりウンザリしたのは、会議である。一応、メイン・スタッフであったから、長時間にわたる会議にどうしても連座せねばならない。およそアニメとか漫画とかに縁のなさそうな部長だの課長だのが上座に座って、われわれスタッフの出すアイデアに、愚にもつかない異論をぶつける。ほとんどの場合、アイデアは握りつぶされるか、換骨奪胎されてしまう。
おまけに、自分を目の敵にしている課長(鬼軍曹というあだ名だった)がいて、わざわざ大声で、ネチネチいびる。曰く「漫画家でどれくらい有名かは知らないが、会社というところはそんなところじゃない。あんたひとりで動うたってどうにもならんのですぜ」。
ある日、彼にお辞儀をしようとしてリノリウムの床にすべり、宙返りして、倒れてしまった。サラリーマンは自分のしょうに合わない、とつくづく思って「東映」を辞めた。
「東映動画」で完成する以前に「東宝」がミュージカル仕立ての西遊記をワイド・カラーで作ってしった。手塚治虫はこの時の裏話を次のように語っている(要旨)。
「東宝」のイミテーションと言われるのもシャクで、単なる西遊記ではなく、新機軸を出したいと考えた。ではオペラッタでは、となったが「それでは全巻の半分を歌にしなければならない」。とすると、悟空や八戒はいいとして「妖怪や仏様が歌うとなるとたいへんだ」。「貫禄からして三蔵法師が歌うのは変だ」、じゃあ「乗ってる馬に歌わせては」、「さて馬が歌ったり笑ったりしたのではアチャラカになっちまう」。「馬だって笑うよ、フレーメンといって…」、「それは性的興奮の時でしょう」、「適当に性的描写も必要で…」。といった具合に、たいていわけのわからない雑談になってしまう。
馬は蒙古馬かアラビア馬かを決めるのに、膨大な時間を費やし、八戒の豚は、当時、中国には黒豚しかいないという説で、黒くなってみたりした。原作では最後ぎりぎりまで中国の町で、いきなり天竺に出てしまう。これでは唐突なので、ゴビ砂漠やチベットの風物も入れようということになった。ところが砂漠というと、サハラ砂漠のイメージでライオンでも出てきそうだが、ゴビ砂漠らしいアクセサリーは、ということで、白川氏が「オボ」なるものを見つけてきた。これは隊商が道標にする、石を積み上げたもの。しかしこれは不採用となった。
ヨシミツ
年譜の付録。その19について。(略)
ヨシミツ
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