年譜>その20 1958〜59 /ヨシミツ
1958(昭和33)/30歳
〇雑誌の漫画原稿で多忙であった手塚治虫にはアニメのために時間をとることもままならず、当時アシスタントであった月岡貞夫氏に手伝ってもらった。
月岡貞夫氏はキャラクターデザインやストーリーボードの制作に協力した。またストーリーボード制作には、石ノ森章太郎氏も加わっている。
月岡貞夫氏は、これがきっかけで「東映動画」に入社、アニメーターの道を進む。
〇『ぴいこちゃん』/「こばと」(9月〜12月)、『漫画生物学』/「中学初級コース」(1956(昭和31)5月〜1957(昭和32)3月)で、第3回「小学館漫画賞」を受賞する(3月)。
〇岡田悦子さんと見合いをする。
手塚治虫とは、血はつながらないが、遠いいとこにあたり、子どもの頃、手塚家で一緒に遊んだこともあったのだが、岡田悦子さんには記憶がなかった。
また手塚作品の中では、特に『ナスビ女王』/「少女」(1954(昭和29)5月〜1955(昭和30)7月))のファンで、松本かつぢ氏や中原淳一氏のような、かわいい絵を描く人だ、という印象を持っていた(その後『陽だまりの樹』/「ビッグコミック」(1981(昭和56)4/25〜1986(昭和61)12/25)などの時代物が好きだった)。見合いの当日まで、幼なじみであったことを知らなかった。
〇岡田悦子さんとの交際が始まる。
しかし電車を乗り過ごして待ち合わせに遅れたり、デートの途中で居眠りを始めたりと、漫画家としての多忙さを見せ、心配される。
会話の中で、自分が何年おきかに来るスランプの時で、千葉の医者に通っていること、将来、アニメーションを作りたいこと、そのため「東映動画」の嘱託として勉強していること、また住まいを「東映動画」のそばに変えたいことなどを話す。
さらに、恩師から声がかかって、奈良医科大学に籍を置き、学位論文のための研究中であることも告げる。
〇手塚治虫のアニメーションへの思いを託し、「中学1年コース」、「中学2年コース」に『フィルムは生きている』を連載する(4月〜1959(昭和34)8月)。
1959(昭和34)/31歳
〇少年漫画週刊誌の発行があいつぎ、手塚治虫は「週刊少年サンデー」に『スリル博士』を連載する(4/5〜9/6)。この作品は、週刊誌の初連載となる。
〇この頃、すでに漫画単行本を発表していた古谷三敏氏は、手塚治虫の誘いの手紙で、アシスタントとなる。初台に入る(春頃)。
時に皇太子ご成婚のテレビ放映中であった。古谷三敏氏の最初の仕事は『ケン一探偵長』/「さんわこどもしんぶん」(1958(昭和33)8月〜1960(昭和35)6月)の単行本用のまとめであった。
また時間が空いた時など、手料理を披露し、編集者の人たちにも好評であった(手がけた作品は、『ダメおやじ』、『ぐうたらママ』、『寄席芸人伝』など)。
〇手塚治虫は、この頃のことをふりかえり、自分は、お弟子さんという名の人は一切とらない。そのかわり、自分のところへ原稿を見せに来る若い漫画家のタマゴたちに、アシスタントとして、1〜2年、仕事を手伝ってもらうことがある。その間手をとって教える訳でもなく、漫画のコツを話すこともない。手伝っているうちに、自然に漫画の世界を覚えてもらうようにした、と言っている(要旨)。
〇この頃、手塚治虫は、基本的に人物から背景まで、ほとんど自分で描いていて、初期のアシスタントは、簡単な背景や斜線、ベタ、ラインくらいを手伝ったという。それらのパターンには記号が符され、アシスタントへの指示も、その記号によって行なわれた。これは遠距離から(たとえば、宝塚から渋谷初台の仕事場へ)電話で指示する時など、とても便利であった。
〇手塚治虫の仕事場は、そこへ詰めている編集者と若いアシスタントとの出会いの場でもあり、漫画家のタマゴであった彼らにとって、自分を見出だしてもらうチャンスの場でもあった。そのことを若いアシスタントにアドバイスするのが、マネージャーの今江氏であった。
〇1階に居た編集者たちは、2階の音楽の音量が大きくなるのを聞くと、手塚治虫の仕事が、はかどっていることを知った。
〇手塚治虫は、多忙にもかかわらず、足繁く映画館に通った。1年で365本以上の映画を見たといわれる。手塚治虫は、映画雑誌をすべて取っていて、ストーリーに興味のある映画、画面に興味のあるものなど、あらかじめ区別しておき、上映時間を計算して、見たい映画の見たいところだけを見て、次の映画館に移動した。これが多忙の中、多くの映画を見る秘訣であった。
ヨシミツ
年譜の付録。その20について。(略)
ヨシミツ
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