年譜>その21 1959 /ヨシミツ
1959(昭和34)/31歳
〇また、手塚治虫は、子ども向漫画の作者として、ほぼ3年ごとにやって来る大ピンチについて、次ように言っている(要旨)。
子ども漫画の読者の中心は小学校4〜6年であり、中学生になると、どんどん漫画から遠ざかっていく。そこで漫画家は、ほぼ3年ごとに新しい読者となる子どもたちの心をつかまなければならない。しかし新しい子どもたちは、以前の子どもとは考え方も流行も気持ちも全然違う。どんどん大きくなる、前の読者についていくのか、もう漫画家をやめてしまうのか…。その時、自分は、新しい読者と駆け出しのつもりで、一緒にがんばるんだ、と心に決める。だから、いつの時代の読者にも喜んでもらえる良いものを描く自信がある。
〇60年安保を控え、世情騒然とする中、今までの漫画とは読者層を異にするという意味合いで、劇画という名称(辰巳ヨシヒロ氏、命名)が誕生し、若者の心をとらえ、一大ブームが始まる。
〇辰巳ヨシヒロ、さいとうたかを、佐藤まさあき、石川フミヤス、桜井昌一ら各氏の「劇画工房」が旗揚げされる。手塚治虫のもとへも「案内状」が届けられた。
〇こういった動向に戸惑い、悩みながら、この頃、時期は前後するが、『ひょうたん駒子』/「平凡」(1957(昭和32)9月〜1958(昭和33)8月)、『雑巾と宝石』/「小説サロン」(1957(昭和32)1月〜12月)、『黄金のトランク』/「西日本新聞夕刊」(1957(昭和32)1/4〜10/16)、『落盤』/「X第3集」(9/13)といった青年向けの作品も手がけた。
〇しかし、結局、劇画の手法にはなじめなかったようで、手塚治虫は、この時期がいちばんつらかったと、のちに回想している。
〇岡田悦子さんと結婚する(10月/宝塚ホテル)。
馬場のぼる・古沢日出夫の両氏が、東京から出席している。
新婚旅行は、富士五湖巡りであった。これは、宝塚から東京へ行く途中、御殿場で下車して行ったもの。
東京での結披露婚は、松下井知夫夫妻が立会人となった。手塚治虫は、この時、原稿を描いていて遅刻している。新居は、初台の2階。富士山がきれいに見えた。
夫人は、徹夜仕事の夜食用に、おでんやおにぎりを作った。新居とはいえ仕事場と兼用であったから、夜通し編集者がいることや、カンヅメで手塚治虫が家を空けることなど、新妻を驚かすことばかりであった。新妻が起きて、仕事が終わるのを待っていると、手塚治虫が、かえってはかどらないということで、夜は先に眠るように言われた。
一方、漫画のストーリー展開に迷ったおり、夫人の意見を求めることがあり、夫人の「おもしろくない」という一言で、7〜8枚をそっくり書き替えたこともあったという。
〇「フジテレビ」の開局番組に『鉄腕アトム』がドラマ化され、放送される。
〇「東映動画」の長編アニメのタイトルが『西遊記』と決まり、脚本・植草圭之介、音楽・服部良一、演出・藪下泰司らのスタッフと、打ち合せを続ける。
手塚治虫が数か月をかけて完成したストーリーボードは、1時間以上のものだったので、1時間にまとめなおすことになる。その決定稿を完成させるため、福島県会津・裏磐梯に投宿する。会津出身のアシスタント笹川ひろし氏が同行ている。結局、旅館では、はかどらず、決定稿は帰りの汽車の中で仕上げられた。
〇『西遊記』の結末は、手塚治虫の原案では、悟空の恋人・隣々が死んでしまう、というものだったが、受け入れられなかった。恋人がなくなるという悲劇の方が、ディズニーアニメにないオリジナリティが出せる、というのが、手塚治虫の考えであった。
そんな経験から、アニメというものが、多くの頭脳や技術を必要とするだけ個性が失われる危険性があること、多人数で何か創造的な仕事をする場合、相乗作用とともに、相殺作用も起こるのだ、ということを知る。
ヨシミツ
年譜の付録。その21について。(略)
ヨシミツ
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