年譜>その22 1960〜61 /ヨシミツ
1960(昭和35)/32歳
〇『西遊記』が劇場公開される(8月)。
〇西武線・富士見台にスタジオ兼住居を建てる(8月完成)。
畑の中に建った白亜の建物であった。ここに、宝塚から呼び寄せた両親とともに住まう。
仕事場となる部屋は2階まで吹き抜けとなっていた。手塚治虫のスペースは、中2階にあり、1階からはらせん階段で上がった。1階は、アシスタントの仕事場であった。らせん階段は、さらに上のペントハウスに通じていて、そこは陽光がさんさんとふりそそぐスペースであった。
壁には4個のスピーカーが埋め込まれていて、徹夜仕事のおりなど、眠気ざましの意味もあって、大音量でクラッシクがかけられた。アシスタントや編集者に聞かせるため、さまざまなジャンルのレコードを用意することになったという。
中2階から主線(おもせん)の入った原稿が1階のアシスタントに、ヒモにつないで降ろされる。1階では、背景などが描き入れられ、再び中2階へ戻される。これを数回くりかえすうちに、原稿が出来上がった。
〇この前後「少年サンデー」に『0(ゼロ)マン』を発表する(1959(昭和34)9/13〜1960(昭和35)12/11)。手塚治虫にとっては、久しぶりの大河SF漫画で、かなりノッて描くことが出来た。それまで厳しいスランプ状態であったので、思い出もひとしおだという。
〇「アニメーション3人の会」(久里洋二・柳原良平・真鍋博の各氏)の活動に、大いに刺激される。
1961(昭和36)/33歳
〇「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」と題する論文で、学位を取得する(1/29)。
仕事の合間に、奈良医科大学に通って研究したもので、これによって、手塚治虫は医学博士となった。医学博士号授与式は、2/8同大学で行なわれた。これに出席するため、東京と奈良の間を飛行機を利用して日帰りした。たいへん疲れたと言っている。
奈良医科大学の研究室に通っていたある日、道に迷い、路傍の石仏(地蔵尊であったという)に出会う。その異様な鬼気に打たれたという。以来、路傍の彫刻を探して歩くことが楽しみのひとつになった。
〇「中一コース」、「中ニコース」に『アリと巨人』を連載する(4月〜1962(昭和37)12月)。安保闘争、浅沼事件などの世相を反映する作品となった。
〇当時「NHK」の『バス通り裏』担当の演出部であった辻真先氏が手塚治虫を訪う。
『新世界ルルー』/「漫画と読物」(1951(昭和26)1月〜1952(昭和27)2月)の、主人公が時間を止める超能力を持っているというところを生かした新しいストーリーをテレビの連続ドラマにしたいとのことであった。この話は『ふしぎな少年』/「少年クラブ」(5月〜1962(昭和36)12月)という作品となった。
テレビ番組は、辻真先氏が演出し、主人公・サブタンは太田博之氏であった。「時間よ、止まれ」は流行語となった。
なお辻真先氏は、のちにテレビアニメのシナリオライター、推理小説家として活躍する。
〇「東映動画」の劇場用長編アニメーション『シンドバッドの冒険』のシナリオを北杜夫氏と共同で担当する。
ヨシミツ
年譜の付録。その22について。(略)
ヨシミツ
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