年譜>その23 1961〜62    /ヨシミツ 1961(昭和36)/33歳
〇「手塚治虫プロダクション動画部(仮称)」の活動が始まる(6月)。
 自宅の庭に、アニメーション用のカメラ1台を収容する専用の建物を建てていた。ただし、アニメ専用のスタジオはなく、母屋を借りての活動開始であった。
 第一作として実験的(Fine-Art)アニメの製作に入る。第一作のタイトルは『街の片隅の物語』と仮につけられた。この頃のアニメ製作にかかわる経費は、手塚治虫の原稿料でまかなわれていた。
 手塚治虫は、集まった若いスタッフのひとりひとりを作家として扱い、その意見やアイデアを出しあったという。

〇長男・眞(まこと)氏誕生(8月)。
 手塚治虫は、夫人・悦子さんの子供に対する躾け方について「ケチのしつけ」と題し、次のように書いている(要旨)。
 我が家は商売柄、取引先や出版社から、かなりの量の商品や本を贈られる。長男・眞が3〜4歳の頃、ちょうどアトム・ブームで、絵本、玩具、菓子などが山のように届けられたが、家内は、それを決して右から左というように子どもに渡さなかった。2個あれば1個を渡し、もう1個は、こわれたり、なくなったたりした時にはじめて渡した。山のように積まれた商品を前にして、子どもに言い聞かた上で、である。当然、子どもはだだをこねるが、家内は断固として、その習慣を続けた。そのため子どもの手に渡った時には、時期がずれ、時代遅れになったり、カビの生えていたものもあった。
 PTAの集まりなどで、よく「おたくは、お父さんの仕事の関係で、何でも手元に入るから、お子さんは幸せですね」と言われたが、眞の部屋には時代遅れになったぼろぼろの模型があったなどとは信じてもらえまい。

〇自宅母屋の隣にアニメスタジオの建設が始まる(9月)。
 社内で、正式名称についての募集をした。良い社名については賞を出すというもの。応募作には、「ムシブロ(蒸し風呂)」、「手塚笑画電影公司」、「シネ魔プロ」、「ヒョウタンプロ」、「ジャガイモプロ」、「オケラプロ」などがあったという。結局「虫プロダクション」に決定する。「虫」は、漫画の虫、アニメの虫、無死=不死身という意味がこめられていた。

1962(昭和37)/34歳
〇「虫プロ」第1スタジオが完成する(4月)。
 建物は斜めの線を多用した不思議な感じをただよわせたものであった。
 この頃、「虫プロ」初のスタッフ公募をする。10人の募集に対して、300人近い応募があった。

〇この頃の「虫プロ」はとても家族的な雰囲気であった。例えば、夏の朝礼は、ラムネを飲みながら、ざっくばらんなスタッフの話を手塚治虫が聞くというふうであった。月1回、誕生会が開かれたり、「ガンマーズ」という草野球チームもあった。編集者チームとの試合では、日頃の締切を延ばされている"怨念"からか、大敗をしたという。
 昼食には、ひとり100円が渡され、おつりの来る時代でもあった。

〇第1回「日本SF大会」が東京目黒公会堂別館で開催される(5月)。手塚治虫も参加している。
 大会では、星新一氏の新作朗読、手塚治虫・石ノ森章太郎・長谷邦夫各氏の即興漫画などが行なわれた。
 手塚治虫は、SFと漫画の関係について、次のように述べている(要旨)。
 両者の読者が共通していること、SF作家の大多数が漫画を描くか、熱中した経歴を持つこと、両者がなぜ同じ嗜好性を持つのかよくわからないとしつつも、両方とも強烈な風刺性を持つ戯作であり、下手をすれば荒唐無稽に陥り、しかしともに未来を志向し、若い人向きのロマンを含んでいる点が共通するであろう。
 当時は、まだSFという言葉すら一般的ではなかった。それまでは(ことに昭和20年代は)、SF、幻想、怪奇などひっくるめて、空想もの、猟奇ものと呼んでいたし、小説なら、科学小説・空想小説と堅苦しく呼んでいた。漫画なら十把一からげに冒険漫画であった。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その23について。    /ヨシミツ  いよいよ、「虫プロ」の登場ですね。そして、手塚治虫とアニメとの関わりが始まる訳ですね。
 手塚治虫自身が、やりたかったアニメは、いわゆる Fine-Art、「実験的」と訳すのでしょうか、そういうアニメだったようですね。

 それと、アニメ制作を自分のマンガ原稿料でまかなったこと、生まれたばかりの頃の「虫プロ」では、  メンバーの一人一人を、一個のクリエイターとして扱っていること、など、とても良い話なんですけど、このあとのことを思うと、危なっかしくも映ります。
 ほのぼのとしてるんですけどね。

 プライベートなところでは、長男・眞さんの誕生ですね。現在、映画の世界などで活躍されていますね。

 もうひとつは、手塚治虫とSFとの関わりです。日本では、まだ、SFという言葉さえ、耳慣れていない頃、その活動の一線にいた訳で、このSFとのことは、氏を見る上で、欠かせない重要なポイントのひとつですね。

                              ヨシミツ