年譜>その24 1962 /ヨシミツ
1962(昭和37)/34歳
〇テレビアニメシリーズの制作について検討を始める。
「虫プロ」の若いスタッフの間からアニメ制作で「虫プロ」が自立できる道を模索する意味でも、アメリカのテレビアニメ『恐妻天国』に用いられているリミテッド・アニメという手法で、週1回のアニメ制作が可能ではないかという話が出る。
リミテッド・アニメーションとは、劇場用のフル・アニメーションに対して、動画枚数を減らし、手足や口の動きなど限られた動きだけで表現するもの。ストーリー的にしっかりしたものを使えば、作品として成立するのでは、と考えられた。手塚治虫の原作であれば、充分可能であるというものだ。
一方、手塚治虫自身も同様の企画をあたためていたといい、原作として選ばれたのが『鉄腕アトム』であった。
この話を受けて、「虫プロ」のスタッフが、従来からの『ある街角の物語』(『街の片隅の物語』)の映画班と『鉄腕アトム』担当のテレビ班とに分かれ、作業にかかった。
〇当時、アメリカでは「ハンナ=バーバラプロ」による『珍犬ハックル』、『恐妻天国』など、リミテッド・アニメーションによるテレビアニメのシリーズが成功していたが、日本では、まだ、どこも手がけていなかった。
手塚治虫は、それを次のように見ていた(要旨)。
漫画映画の制作は、人件費がかかる上に制作時間が長く、儲からないものだという先入観に加え、完成し、封切ったところで「なんだ、子ども漫画か」といった具合に大人がバカにする風潮があった。従って、週1本30分のアニメを作るのは無謀である、という既成概念あり、それが邪魔していたのである、と。
また手塚治虫は、テレビアニメという商業作品で収入の安定をはかり、それをもとに、アニメの可能性を探る実験的作品を作る、という構想を持っていた。
〇30分放送のテレビアニメは、CMをのぞくと正味25分、1秒24枚のフルアニメなら 36,000 枚の絵が必要である。それを、当時のスタッフの陣容から、2,000 枚にしぼり込み、1台しかなかったカメラを、フルに使っての制作であった。
手塚治虫原作ということでテレビアニメ『鉄腕アトム』の初期のものはシナリオ・絵コンテもカット番号もなく、その部分の作業をとばして、制作していた。
手塚治虫自身は漫画原稿の仕事で多忙であったので、アニメの作業はその合間に行なわれるという有様であった。その関係で「虫プロ」の作業がしばし中断することもあったという。そして、ひとたび、手塚治虫が「虫プロ」のスタジオに入ると、自身も超人的なスピードで作業をしたり、指示を出したりしたという。
〇広告代理店「光年社」の綾見氏がTVアニメ『鉄腕アトム』を担当することになる。彼はのちに「虫プロ」のアニメ担当役員になる。
そしてスポンサーは「明治製菓」と決まった。この時「虫プロ」は新たにスタッフを募集し、体制を整えた。
また製作費について、次のようなやりとりがあった。
はじめスポンサーとの交渉で1本150万円の線が出ていたが、手塚治虫はこれを1本55万円で引き受けた。手塚治虫の考えとしては、通常のTVドラマが1本40〜50万円のところ、アニメだけがとびぬける訳にはいかないこと、外国製アニメとのバランスのこと、また安くすることで他社の追随を許さぬこと、などが理由であった。
この価格設定には、こののち完成する『ある街角の物語』制作の経験から、手塚治虫なりの目算があったようだ。
ヨシミツ
年譜の付録。その24について。(略)
ヨシミツ
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