年譜>その25 1962 /ヨシミツ
1962(昭和37)/34歳
〇第1回「虫プロダクション作品発表会」の実施が決定される。
この発表会では『ある街角の物語』と『鉄腕アトム』第1話が上映(当日は、これにもう1本)されることになった。
しかし、この段階で、両者の作業は大幅に遅れていたという。『ある街角の物語』を完成させるめ、"殺人週間"と呼ばれた追い込みを4度行なった。この期間中、動画・トレス・彩色各部門で1日1人100枚以上を描き上げ、撮影もカメラ1台2人のカメラマンで400フィート 6,400 枚を撮り上げた。
〇第1回「虫プロダクション作品発表会」が銀座ヤマハホールで開催される(11/5)。上映されたのは『ある街角の物語』、『鉄腕アトム』第1話、『おす』であった。
手塚治虫はふりかえって、実験アニメの制作は楽しかった。どうせ"売り物"ではないという諦めが、かえって皆の創作意欲をかきたてたようだ。『ある街角の物語』のポスターたちが拍手するシーンは、まるで1コマ漫画のようであり、そのため40分足らずの作品であったが、カット数がたいへん多かった、と言っている(要旨)。
また『鉄腕アトム』第1話には、まだ音が入っていなかった。そこで、音だけのテープを別に流したが、うまくいかず、絵と音がずれてしまった。しかしこの発表会はたいへんな話題となった。
なお『ある街角の物語』は、「芸術祭奨励賞」・「ブルーリボン賞」・「大藤信郎賞」の各賞を受賞した。
〇「東映動画」の劇場用長編アニメーション『わんわん忠臣蔵』の絵コンテを執筆する。
〇『鉄腕アトム』制作の初期段階には、さまざまな試行錯誤があった。スタッフのほとんどは、フル・アニメーションの技術を勉強していたので、リミテッド・アニメーションの手法になじめないところがあった。
例えば、アトムが驚くシーン1秒半は、全く動かないアトムの顔に、やはり流れない汗を描き、ただ目をパチッと開かせ、口を「あっ」と叫ばせるだけであった。
また50人の人間が逃げ惑う群衆のシーンでは、別々に50人を描いた4枚の絵をアトランダムに撮って使った。いずれもフル・アニメでは考えられない手法であった。
〇「虫プロ」のスタッフは『鉄腕アトム』本放送開始までに充分なストックを用意したいと考えていた。しかし、残り2ヵ月足らずとなった段階でも、手塚治虫が多忙のため、思うように作業がはかどなかった。そこで、マネージャー今江氏を通じて、手塚治虫との直談判の席を持った。
今までの手塚治虫のやり方では、自分たちのスケジュールがつかめない、この際、それまで手塚治虫が行なっていた演出の仕事を「虫プロ」のスタッフに任せてもらいたいとの申し出であった。
手塚治虫は、ちょうど風邪をひくなど体調を崩していた時で、周囲へブツブツ不満をもらしたものの、本心は"手を合わせたい"気持ちであったという。
それでも絵コンテのチェックなど、どうしても手塚治虫の手をへなければならない部分があり、そんな時は「虫プロ」のスタッフが手塚治虫の仕事場へ行くのだが、雑誌編集者の詰めている張りつめた雰囲気の中を入っていかなくてはならなかった。そのため「虫プロ」の方も、雑誌編集者と同様、手塚番を決めたという。
〇「虫プロダクション」が株式会社として発足する(12月)。
〇「虫プロ」スタッフの疲労も極限に達し、本放送を翌日に控え(すなわち12/31)、満足なストックを用意できなかったスタッフは、放送延期を申し出る。
応対した綾見氏は、ここで延期してしまえば、結局テレビアニメは不可能だったと言われることになり、今後、スポンサーもつかなくなるし、誰もテレビアニメをしようとしなくなるだろう、テレビアニメの可能性をつぶすことになるかもしれない、と説得した。
ヨシミツ
年譜の付録。その25について。(略)
ヨシミツ
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