年譜>その26 1963       /ヨシミツ 1963(昭和38)/35歳
〇TVアニメーション『鉄腕アトム』の本放送が開始される(1/1)。
 この時のことを手塚治虫は、この感慨は、終生忘れられないだろう、我が子がテレビに出演しているのをハラハラして見ている親の心境だった。そして終了のエンドタイトルを見た時には、「あぁあ、もうこれでこれで1本終わってしまったかぁ」とつくづく思った。次の1週間はあっという間にたった、と言っている(要旨)。

〇『鉄腕アトム』の制作では、バンクシステムという方法がとられた。
 これは1度使ったセル画・背景などをすべて保存整理し、再利用するもの。有効に活用するためには、整理の状態に熟知しているスタッフが必要であった。手塚治虫は、演出の際、これらを素早く有効に使いこなせたという。実際に再利用された率は、約30〜50%くらいであったが、それでもたいへん助かるシステムであった。

〇『鉄腕アトム』は最高40%の視聴率をとり、超人気番組となったが、それだけにスタッフには重圧ともなった。
 現場では演出1人・原画家1人・動画家3〜4人が1チームとなり、1話を担当した。そして5チームがローテーションで制作にあたった。現在、作画に5週間をあてるところ、当時は1週間の余裕しかなかった。
 ふりかえって手塚治虫は、作っても作ってもテレビという怪物は作品を片っ端から食っていった。視聴率や評判が上がるのと反比例するように、スタッフの顔は、ぞっとするほど痩せ衰えていった。
 何人かがノイローゼになったり、身体にガタがきて休んだが、それでも歯をくいしばって耐えぬいた。皆を支えていたのは、自分たちは開拓者なんだというプライドだけであった、と言っている。

〇「虫プロ」今江専務が「アトム会」を作る。
 これは、アトムのキャラクター商品を作っている、玩具メーカーなどの集まりで、新製品の企画の申請を受け、アトムにふさわしいかどうかを試問する機関であった。業者は相互に協力しあってアトムというキャラクターを大事に使おう、海賊商品は弾劾していこうというものだった。
 「虫プロ」では版権の管理のため版権部を設け、日本で初めて、ロイヤリティーをとり、マーチャンダイジングでの収入を確保した。初期の製作費こそ赤字であったが、これらを含めて大きな収益を得る、という手法を確立していくことになる。
 スポンサー側のひとりは、その発想を手塚治虫の才覚だ、と評価したという。

〇『鉄腕アトム』がアメリカ「NBC」に売れる。国産アニメーションとして初めてのことであった。
 手塚治虫は、この時、契約のため、渡米している。彼自身にとっても初の渡米であったし、日本人の海外旅行が自由化されるのは翌1964(昭和39)年からのことであったから、当時としては、たいへん珍しいことであった。出発の日は「虫プロ」スタッフがバスをチャーターして、空港まで見送りにいったという。
 初めて歩いたニューヨークでは、自分より背の高い人が多くいること、英語をしゃべれない人もいたことなどが印象に残り、(アメリカでの「アトム」の成功によって)終戦後に、米兵の暴行で身についていた、不愉快なコンプレックスも消えしまったと、述懐している。
 また、当時のアメリカ人にとっては、日本人の存在そのものが珍しいことであった。そのため、ニューヨークのエレベーターの中で、手塚治虫は、黒人に間違われそうになった、という。エレベーターの中で、アメリカ人老夫婦と乗り合わせ、しげしげとながめられた上に、その夫婦は「この男は何だ」、「黒人でしょう」、「そうか、黒人か。だが、どうして、このホテルの客に黒人がいるんだ?」というような会話をかわしていた、という。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その26について。(略)
                              ヨシミツ