年譜>その27 1963       /ヨシミツ 1963(昭和38)/35歳
〇『鉄腕アトム』が『アストロボーイ(AstroBoy)』と名をかえ、「NBC」により全米に放映される(9月)。
 タイトルを『アストロボーイ』とかえた理由のひとつが、アメリカではスラングで、アトムがおならという意味になるためであった。放映に際しては、一切の編集はされず、そのままのかたちであった。その国の視聴者にあわせて、フィルムに手を加えるということが普通に行なわれていた時代である。

〇アトムは AstroBoy、ウランは AstroGirl、お茶の水博士が Dr.Elephant、たわし警部が Mr.Gumshoe、ヒゲオヤジが Mr.Pompus、天馬博士が Dr.Boynton、という名前になった。
 その後、アメリカだけではなく、世界各国で放映された(イギリス、フランス、西ドイツ(当時)、メキシコ、ベネズエラ、ブラジル、シリア、ナイジェリア、台湾、香港、タイ、マレーシア、フィリピン、オーストラリアなど)。当時「NBCインターナショナル社」のセールスで、世界29ヵ国、その後「ジェトロ」などを通じて、普及し続け、手塚治虫自身、1987(昭和62)年の時点で、40ヵ国と言っている。そして、1980(昭和55)年に中国で放映され(『鉄臂阿童木』)、中国で41ヵ国目になった。
 また『ジャングル大帝』も同様、世界各国で放映された。

〇アニメ制作で多忙の中、『新選組』/「少年ブック」(1月〜10月)、『バチス号浮上せず』/「少年サンデー」(8/25)、『ロップくん』/「小学1年〜3年生」(10月〜1965(昭和40)9月)などの連載を手がける。

〇「日本SF作家クラブ」が結成される。手塚治虫も会員となる。

〇この頃、手塚治虫自身も乗り気で連載していた作品に「SFマガジン」の『S.F.Fancy Free』のシリーズがある。手塚治虫らしいアイデアの光る小品群である。
 担当編集者は森優氏。森優氏は「宇宙塵」の同人であり、「漫画少年」に投稿した経験ももつ。手塚治虫が乗り気であった証拠に、この原稿の出来上がりには、他誌の編集者ように何日も泊まり込む必要がなかったという。
 一度だけ森優氏が、出来上がった手塚治虫の原稿に注文をつけた時のこと、二度までの描き直しに応じてくれて、完成したのが夜明けであったということもあった。
 タイトルの"Fancy Free"は、ディズニー・アニメの『ファン・アンド・ファンシーフリー』から借りたもので、手塚治虫のディズニー・ファン振りをしめすネーミングである。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その27について。(略)
                              ヨシミツ