年譜>その28 1964       /ヨシミツ 1964(昭和39)/36歳
〇「サンケイ新聞」の特派員として、ニューヨーク世界博を取材に行く(4月)。その漫画ルポは、当時としては珍しくニューヨークから電送された。
 会場内の人形館(ペプシコーラ館)のオープニング・セレモニーで、ウォルト=ディズニーに偶然会う。この時の人形館の出し物が『イッツ・ア・スモール・ワールド(It's a Small World)』であった。その後、ディズニーランドへ移設されている。2人の会話は、かたい握手とともに、ほんの1分くらいのことだったという。
 手塚治虫は、自分が『アストロボーイ』の作者であることを告げると、ディズニーは「これからの子どもたちは宇宙に目を向けなければならない。私もああいうものを手がけてみたい」と言い、お国の皆さんによろしくと言うと、次の仕事へ移動して行った。

〇長女・るみ子さん誕生(4月)。

〇「虫プロ」の第2スタジオが完成する(8月)。
 『鉄腕アトム』放映後、空前のテレビアニメブームとなり、「虫プロ」でも毎年スタッフの募集を続けた。「虫プロ」の人気は高く、競争率は20〜30倍であったという。
 初期の実技試験によく出されたのが、木の葉が地面に落ちるまでのアニメを描くもの。合格したメンバーは3ヵ月間ほどの養成期間に入った。そのための小さな建物もあった。

〇「虫プロ」のPR活動として「虫プロ友の会」が結成された。またその機関誌として「鉄腕アトムクラブ」が出版課によって発行された。

〇「虫プロ」には"練馬の不夜城"というあだ名がついていた。そんな「虫プロ」第1スタジオの中3階は、試写室でもあり、仮眠室でもあった。

〇この当時で雑誌連載の『鉄腕アトム』は14年間続いていたが、週1回のテレビアニメ放映で、その原作も放送後1年あまりで使い切ってしまった。そこでテレビアニメ用のオリジナルのシナリオが必要となり、その方面の草分け的存在であった辻真先・豊田有恒の両氏が、テレビアニメ『鉄腕アトム』のシナリオに参加した。豊田有恒氏は大学出立ての新人作家であったのを、「宇宙塵」の会合で、手塚治虫が声をかけ、参加してもらうことになった、という。

〇まだアニメ制作の形式も整っていない当時のことで、原作者・手塚治虫とシナリオライター・豊田有恒氏とは、直接ブレーンストーミングをすることもあった。

〇手塚治虫が、原稿執筆で多忙であるため、「虫プロ」の制作進行を遅らせることが、相変わらず続いていた。従って、雑誌原稿の仕事とアニメ制作の方とで、手塚治虫の奪い合いのような状態も、続いていた。
 当時の「虫プロ」の手塚番は、石津嵐氏。手塚治虫に、アニメの方の仕事を急いでもらうため、その仕事場へ入る時は、髭づらの雑誌編集者がいっせいに振り向くのにも気後れしないよう、気合いを入れなければならなかった。

〇辻真先氏は、当時をふりかえって、次のように述べている(要旨)。
 「虫プロ」のドアは静かに開けなければならない。それは、徹夜仕事で疲れているスタッフがドアにもたれて、眠っているかもしれないからだ。手塚治虫とのシナリオの打ち合せでは、言葉で説明するより早く、絵コンテを描いてしまうのに驚き、手塚治虫は、常に多忙だったので、ゆっくり話す機会もなかった、と。

〇テレビアニメーション『鉄腕アトム』が第2回「テレビ記者会賞特別賞」を受賞する。

〇「虫プロ」実験アニメーション『人魚』、『メモリー』を完成させる(9月)。「草月アニメーションフェスティバル」に出品された。「草月アニメーションフェスティバル」は実験アニメの上映会。

〇東海道新幹線開通前の、著名人を集めての試乗会に、手塚治虫も招待されて参加している。車中でも、忙しく原稿を描いていた。

〇「日本漫画家協会(The Japan Cartoonists Association)」が発足する(12/15)。手塚治虫も理事のひとりとして参加する。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その28について。(略)
                              ヨシミツ