年譜>その29 1965       /ヨシミツ 1965(昭和40)/37歳
〇映画監督スタンリー=キューブリックから『2001年宇宙の旅』(1968(昭和43)年公開)の美術デザインを協力してほしい旨、依頼の手紙があった。同監督は、この時までに『博士の異常な愛情』、『スパルタカス』などの作品で著名であった。
 手紙は「私は小さなプロダクションで映画を作っている一製作者であります」と謙虚に書き出され、自分は『アストロボーイ』を見て、この手紙を出した。今度作るSF映画の美術デザインの協力を頼みたい。ついては1年ほどロンドンでスタッフと生活してもらえないか…、と書かれていた。
 手塚治虫は「残念ながら」とこの申し出を断っている。その後、この映画のサウンドトラック版は、しばし手塚治虫の仕事場でかかっていた。

〇国産初のカラーのテレビアニメ作品として『ジャングル大帝』の制作準備が始まる。
 山本暎一氏が監督に起用された。彼のまず手がけなければならなかったことは予算管理の仕事であった。つまりムダな出費を省いて妥当な予算で作るということ。
 また、アメリカで放映されることを前提にして進められた。手塚治虫からは、『ジャングル大帝』は昔の作品なので、現代的な感覚で処理してもらいたいこと、ただし壮大な叙事詩のイメージは崩さないようにすること、アメリカでの放映を考えて、レオの子ども時代と大人時代のキャラクターは、はっきり分けて描くこと、などの注文が出されていた。
 アメリカなど海外でテレビ放映される場合には、回の途中をとばしたり、順番を入れ替えたりすることがあるので、第1回と最終回をのぞき、他の回は前後しても話が分かるようにしなければならなかった。シナリオを担当した辻真先氏はこの条件を満たすために、第1回のレオの生い立に、回想シーンを使うなど相当の内容を詰め込むことにした。
 カラーアニメといっても、当時の一般家庭のカラーテレビの普及率はさほど高くなかったので、モノクロ画面でも色合の識別ができるよう注意がはらわれた。

〇『ジャングル大帝』のテレビ本放送が始まる。
 オープニングは、それだけで30分番組1本分の費用をかけ、フル・アニメーションで力を入れて作られた。テーマ曲は冨田勲氏であった。格調高いオープニングは、当時の子ども達に強い印象を与えた。

〇『W3(ワンダースリー)』を雑誌連載する/「少年マガジン」(3/21〜4/25)、/「少年サンデー」(5/30〜1966(昭和41)5/8)。同時にテレビアニメシリーズも制作する。

〇「虫プロ」以外からも、手塚作品がテレビアニメ化され、雑誌連載ともども人気を得た。『ビッグX』/「少年ブック」(1963(昭和38)11月〜1966(昭和41)2月)が「東京ムービー」から(1964(昭和39)8/3〜1965(昭和40)10/4)、『マグマ大使』/「少年画報」(1965(昭和40)5月〜1967(昭和42)8月)が「Pプロ」から(1966(昭和41)7/4〜1967(昭和42)9/25)放映された。ただし『マグマ大使』は実写特撮。

〇「虫プロ」第3〜5スタジオが増設される。第3、4スタジオはアパートを改造したもの、第5スタジオは開いた幼稚園を借りたものだった。「虫プロ」最盛期にはスタッフ400〜500人いたという。

〇手塚治虫はアメリカの「NBCフィルムズ」へ『ジャングル大帝』のセールスのため渡米する(8月)。
 この時は「ハンナ=バーバラプロ」や「UPA」のスタジオも訪問している。渡米の飛行機の中でも原稿を描いていた。
 『ジャングル大帝』のパイロットフィルムを見た「NBCフィルムズ」側の反応は「すばらしい(Magnificent!)」であったという。アメリカでのタイトルは『キンバ(Kimba)・ザ・ホワイトライオン』であった。

〇実験アニメーション『しずく』が完成する(10月)。「草月アニメーションフェスティバル」に出品された。

〇『鉄腕アトム』で「厚生大臣児童福祉文化賞」を受賞する。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その29について。(略)
                              ヨシミツ