年譜>その30 1966       /ヨシミツ 1966(昭和41)/38歳
〇「円谷プロ」の『ウルトラQ』の放映が始まる(1/2)。ちょうど『W3(ワンダースリー)』の裏番組にあたった。この番組が怪獣ブームに火をつけた。視聴率を争う強敵となる。

〇この頃、アニメーターは新しい職業として脚光を浴び始めた。アニメ人気を背景に続々とテレビアニメが登場し、そのためにアニメーターの不足、制作会社の引き抜き、経験の浅いアニメーターでも高給の待遇が得られる(ただし苛酷な労働だが)状況が顕著となった。
 手塚治虫は、粗製濫造気味な、歪んだ急成長を、アニメ自身がかえって自分の首をしめかねないと警戒し、他を追随させることになった『鉄腕アトム』の成功をすら、「アトムがあれほど成功しなければ良かったのだ」と述懐している。
 手塚治虫は、完成した『鉄腕アトム』のフィルムを1本まるまる没にすることが幾度かあった。彼はへんなものは放送できない、本当に恐いのはスポンサーではなく、視聴者である、と考えていたからだ。そんな時の放送は、以前放送したフィルムをもう一度流す、いわゆる"リピート"で対応した。

〇手塚治虫は、よく「虫プロ」のスタッフに、自分たち自身の作品を作るように勧めていた。絵コンテを描いて見せ、良ければ企画会議にかけ「虫プロ」の作品として作ろうというもの。
 ただしこの時「虫プロ」は、以前のような小規模な作家集団ではなく、企業としての体制を整えなければならない段階であった。

〇中編の実験アニメーション『展覧会の絵』の制作に入る。
 これはムソルグスキー組曲『展覧会の絵』をイメージしたアニメ映像詩ともいうべき作品。そのためのスタッフは第5スタジオに集められた。そこへ手塚治虫が自転車で出向いて行くのは、仕事の手のあいた夜中であることが多かった。
 また手塚治虫自身が他のスタッフと机を並べて作業することもあったが、「虫プロ」役員には内緒のことであった。
 ラストシーンの、巨大な門を天国の雲間から見下ろすまでのトラックバックでは、実際に「虫プロ」の庭に大がかりなセットを作って、撮影された。
 なお『展覧会の絵』は「虫プロ」ではなく、手塚治虫個人の出費で制作された作品である。

〇第2回「虫プロフェスティバル」が、東京千代田区の都市センターホールで開催された(11/11)。
 ここで東京交響楽団の生演奏とともに『展覧会の絵』が上映された。
 この作品は、風刺と実験精神にあふれる短篇アニメの組曲だった。構成は、第1話「評論家」、第2話「人工造園師」、第3話「整形外科医」、第4話「工場主」、第5話「チンピラ」、第6話「チャンピオン」、第7話「テレビ・タレント」、第8話「禅」、第9話「兵隊」、第10話「フィナーレ」であった。
 一緒に『交響詩ジャングル大帝』も演奏された。この会には「漫画少年」の加藤謙一氏も列席していた。

〇実験アニメーション『展覧会の絵』の編曲を冨田勲氏に依頼する。
 完成した『展覧会の絵』を「ヴェネチア映画祭」に出品しようと考え、東京交響楽団演奏の『展覧会の絵』を録音し、音楽として使う予定にしていた。ところが、直前になって、演奏のために使っていたラヴェル編曲の総譜にロンドンの音楽出版社のパテントがついていることがわかった。このまま無断使用すると巨額の賠償金を支払わなければならないということで、急遽、冨田勲氏に編曲を依頼することになった。ムソルグスキーのものはソ連だからパテントはないだろうと思っていたが、ムソルグスキーはピアノ曲しか作っていなかったのだ。冨田勲氏の編曲は1週間程で完成したという。ただし「ヴェネチア映画祭」には出品していない。

〇実験アニメーション『展覧会の絵』は、第21回「芸術祭奨励賞映画部門」、第17回「ブルーリボン教育映画文化賞」、第5回「毎日映画コンクール大藤信郎賞」、第14回「アジア映画祭特別部門賞」の各賞を受賞した(1967(昭和42)年)。
 『交響詩ジャングル大帝』は、第21回「芸術祭奨励賞音楽部門」を受賞した。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その30について。(略)
                              ヨシミツ