年譜>その31 1966 /ヨシミツ
1966(昭和41)/38歳
〇「虫プロ商事」創設(9月)。「虫プロ」のフィルム部門以外を別会社とする。「虫プロ」役員が社長となり、池袋のビルへ移転した。「虫プロ商事」では版権業務のほかに出版を扱うことになっていた。
〇「虫プロ商事」から月刊漫画雑誌「COM」が創刊される(12月)。
COMとは、「COMICS」、「COMPANION」、「COMMUNICATION」のCOMであり、「COMMUNICATION」の「C」、「OPINION」の「O」、「MANIA」の「M」でもあった。それまでのファン向け小雑誌「鉄腕アトムクラブ」(11月号で休刊)を発展させた「虫プロ商事」のメイン雑誌である。
キャッチ・フレーズは「まんがエリートのためのまんが専門誌」であった。
表紙の片隅に描かれたアトムのマークは、休刊した「鉄腕アトムクラブ」の読者へのあいさつであった。
新雑誌の柱は手塚治虫の『火の鳥/黎明編』(1967(昭和42)1月〜11月)、ほかに石ノ森章太郎氏、永島慎二氏らの漫画が掲載された。また投稿欄をもうけ、新人子ども漫画家のための登龍門とすることも柱のひとつとなった。
個人漫画家の大河ドラマを中心とする月刊漫画雑誌という形態は、1964(昭和39)年「青林堂」から創刊された「ガロ」に似ていた。「ガロ」はまた個性ある新人漫画家が登場するユニークな雑誌でもあり、当時大学生のファンがつくなど若い人に注目されていた。「虫プロ商事」もこの動向を意識していた。
〇『火の鳥/黎明編』の連載について、のちに手塚治虫は、次のように振り返っている(要旨)。
戦後、間もなく発表された江上波夫氏の『騎馬民族征服王朝説』に、頭をなぐられたような、カルチャーショックを覚えた。中学校時代から「古事記」などの日本神話には、単純明快なルーツがあるのでは、と思い続けていた。ハガードの『ソロモン王の洞窟』にも、南洋一郎氏の冒険小説にも、原住民が日食を見て驚き騒ぎ、主人公が、それをおどしに利用するくだりがあって、天岩戸伝説もそうだろうと思っていた。
「漫画少年」連載の『火の鳥』は「南方民族漂着説」をもとに、フィリピンあたりの小島から人々が日本へやって来るというプロローグであった。ただ、まだ「魏志倭人伝」のヒミコの名を知らなかったので、使っていない。
「COM」(手塚治虫は、"マニアックな漫画雑誌を出すことになった"と言っている)では、この際、自分の古代史観について決着をつけたいという思いで、『火の鳥/黎明編』の連載を始めた。当時は邪馬台国論争(大和畿内説×北九州説)が盛んだった。また、安保のはざまで、学生運動も激しかったので、多分に露骨で表現もラジカルになっていた。
三島由紀夫氏が『火の鳥』を読んで「手塚治虫もついに民青の手先となりはてたか」と、ある雑誌で批判した。手塚治虫は電話をかけて、最後まで読んで、批評してほしい、と言った。しかし三島由紀夫氏も最後まで読むことは出来なかった。現在(1983(昭和58)年)まだ連載は完結していない、と言っている。
『火の鳥』を描いていてつくづく感じるのは、歴史の表層と裏面の違いである。豊富な資料で解明されている歴史を描くのは楽だが、結局、権力闘争の繰り返しにすぎず、おもしろくない。むしろ歴史から消され、葬り去られた何百倍もの分量の中にこそ民衆の生きざまがあったのだろう、と思う。たった1個の土偶や貝殻から百千のバラエティに富んだ古代史が読み取れるような気がする。(これからも)古代との縁はなかなか切れそうにない。
〇「COM」の森征氏は「ぐら・こん」というファン組織の運営などにたずさわった。森征氏は「虫プロ」で『ジャングル大帝』を担当したジャングル班のアシスタント・プロデューサーであった。
森征氏はのちに漫画評論家・峠あかね、劇画家・真崎守として活躍する。
ヨシミツ
年譜の付録。その31について。(略)
ヨシミツ
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