年譜>その33 1967 /ヨシミツ
1967(昭和42)/39歳
〇『悟空の大冒険』の放映が始まる(1/7〜9/30)。『リボンの騎士』/「なかよし」(1963(昭和38)1月〜1966(昭和41)10月)の放映が始まる(4/2〜1968(昭和43)4/7)。
〇『鉄腕アトム アトム今昔物語』の連載が始まる(「サンケイ新聞」(1/24〜1969(昭和44)2/28))。
〇この頃「虫プロ」、「虫プロ商事」の年中行事として、手塚治虫が長男・眞さんを連れ立って、節分の豆まきをしていた。
〇漫画集団の有志12人(団長:横山隆一氏)で、世界一周旅行を行なう(5月)。多忙の中、手塚治虫も参加する。旅程はハワイ・アメリカ、カナダのモントリオール万博、それにヨーロッパ各国を巡るものだった。
手塚治虫の出発は遅れて、ロサンゼルスで合流することになった。ロサンゼルスでは、馬場のぼる氏と同宿で、氏が市内観光から帰ると、部屋に手塚治虫が到着していた。その時、原稿を描いていたという。
マドリッド(スペイン)のプラド美術館を見学中、手塚治虫が、馬場のぼる氏と2人、他のメンバーから遅れた。理由は、2人で互いに記念写真をとっていたからだという。周囲に人気(ひとけ)もなかったので、手塚治虫がおどけて、かたわらの台座に寄りかかって、ポーズをとった。一瞬、体重で台座が傾き、台の上にあった大きな壺が落ちそうになった。手塚治虫は「いけねえ」とか言いながら、その壺を押さえて、元の通りにした。その時は、さほど気にとめていなかったが、美術館を出て、ことの重大さに気づき、どっと冷汗が出たという。その壺は「ピカソの壺」で、おそらく何千万もするはず。もし、こわしていたら、自分の立場はどうなっていただろう、と。
手塚治虫は、先に帰国し、この時の仲間の印象は、手塚治虫は「ロスで現われ、ヨーロッパで消えた」というものだった。
〇新宿の喫茶店「コボタン」で「手塚治虫展」が開催される(9月)。
〇手塚治虫は、縁起をかつぐところがあり、毎年「伊勢暦」を買っていた。
また方角を占ってもらったところ、まっすぐ東に行くと、清いところがあり、そこで土と水をもらうとよい、と言われ、柴又の帝釈天に行ったことがある。その時、車の運転をして同行したのが須潟氏。占いには続きがあり、目的地へ行く途中、道に迷い、道を尋ねると、その人は水商売の人であろう、となっていた。実際、道に迷い、尋ねた人は寿司屋だった。
〇会社の経営は必ずしも順調でないこともあった。そのようなおり、夫人・悦子さんから、仕事の手を広げすぎだという忠告を受け、手塚治虫は、珍しく声を荒げて「淀君みたいに仕事に口を出すな」と言った。夫人はなおも、お願いだから考え直してもらいたい、でなければ実家へ帰らせてもらいたい、とまで言ったこともあった。
〇劇場用に編集された『ジャングル大帝』は「ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞」を受賞した。
〇テレビアニメーション『鉄腕アトム』ほか諸作品で「放送批評懇談会ギャラクシー賞」を受賞する。
〇テレビアニメーション『新ジャングル大帝 進め!レオ』で「日本テレフィルム技術賞」を受賞する。
ヨシミツ
年譜の付録。その33について。(略)
ヨシミツ
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