年譜>その34 1968 /ヨシミツ
1968(昭和43)/40歳
〇「手塚プロダクション」を設立する(1月)。これは手塚治虫が、漫画原稿執筆のために設立したもので、自宅からほど近い一軒家を仕事場とした。この頃は漬物工場のそばで、たくあんのにおいがしたという。このあと、高田の馬場へ移るまで、富士見台周辺を点々とした。
〇手塚治虫はチョコレートが好物で、徹夜仕事のおりは、アシスタントが買いだめをした。
手塚治虫自身は、チョコレートについて、仕事中も口いっぱいにほおばっているので大好物と思われているようだが、好物というよりは、興奮剤の代用に眠気ざましで乱食しているのだ。自分は子どもの頃から、ヨウカンやマンジュウの大ファンである、と言っている。
それは母・文子さんが彼岸や盆や誕生日に作ってくれたオハギやお汁粉によって、幼い頃から餡に親しんできたからで、今でも飲み屋の帰りに、こぎれいな和菓子屋を見つけると、立ち寄って買って帰る。一緒の飲み仲間がひやかすので、家内と年寄の土産だ、と言うが、実際は、ほとんど自分が食べてしまう。
〇この頃、ミニスカートやゴーゴークラブが流行っていた。手塚治虫は。若いスタッフとゴーゴークラブに行くなど、めるまぐるしく変わる流行から若い感覚を吸収することも忘れなかった。それらは、当時執筆されていた『机の中へこんにちは』/「中二コース」(4月〜9月)などに反映された。
〇「漫画集団」の四国旅行(阿波踊り旅行団)に参加する(8月)。小島功氏と手塚治虫が、幹事役をつとめる。こんな日記を書いている(要旨)。
東京から大阪までは列車に乗り、大阪から飛行機を利用する。汽車に乗って、ガッタンと、東京駅を出た瞬間の解放感について「たまんないね」と言い、ウオーッと叫びたくなる。
阿波踊りに参加するため、徳島へ行くが、最初の晩は、高松に泊まり、高松踊りに出る。踊りに出てから、本格的に飲もう、ということで、踊ったあと、宿舎で"乱痴気騒ぎ"となる。翌日、ほろ酔い気分で徳島に着き、1回踊ったところで、皆ダウン。手塚治虫など踊りに残った組と、先に戻る組とに分かれる。手塚治虫らが、踊り終えて合流してみると、先に帰った組はさっぱりと入浴し、盛んに飲んでいた。これでは、踊る阿呆より見る阿呆の方が、ずっと利口らしい、というのが、結論であった。
〇月刊漫画雑誌「少年」が廃刊となる。
〇この頃、青年向け漫画雑誌があいついで創刊された。青年向け漫画も手がける。『人間ども集まれ!』/「漫画サンデー」(1967(昭和42)8/27〜1968(昭和43)7/24)、『地球を呑む』/「ビッグコミック」(4月創刊号〜1969(昭和44)7/25)、『空気の底』シリーズ/「プレイコミック」(9/25〜1970(昭和45)4/11)を発表する。
〇日本万国博(大阪万博)政府出展委員に選ばれる。
〇『バンパイヤ』/「少年サンデー」(1966(昭和41)6/12〜1967(昭和42)5/7)・『同 第二部』/「少年ブック」(10月〜1969(昭和44)4月)の放映が始まる(11月)。実写とアニメを合成した作品で、主人公・トッペイは水谷豊氏、「虫プロ商事」制作だった。ドラマでは「虫プロ」も舞台となり、手塚治虫自身も出演した。トッペイの変身シーンは「虫プロ」の庭で撮影された。
〇「手塚プロダクション」を富士見台駅前のビルに移転する(11月)。70年安保の揺れ動く世相の中、体制からドロップアウトした主人公像、暴力・セックス描写を肯定的に取り上げる漫画が雑誌に登場しはじめ、手塚治虫は、激しいジレンマを感じながら執筆を続けていたという。
ヨシミツ
年譜の付録。その34について。(略)
ヨシミツ
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