年譜>その37 1971 /ヨシミツ
1971(昭和46)/43歳
〇「虫プロ」を去った手塚治虫であったが、なおアニメ制作には意欲的であった。中村橋に、そのための仕事場も借りてあった。
この頃、のちに『森の伝説』となって結実する実験的アニメーションの構想がひらめいていたという。その構想とは、フル・アニメーションやリミテッド・アニメーションなど、アニメの歴史をなぞらえ、環境破壊への警鐘を鳴らす作品で、土台となる漫画は『モモンガのムサ』/ライオンブツクス・「少年ジャンプ」(11/22)であった。そして音楽はチャイコフスキー交響曲第四番を使うというものだった。
チャイコフスキーとの出会いについて、手塚治虫は次のように述べている(要旨)。
1948(昭和23)〜1949(昭和24)年頃、大阪大学に通っていた仲間と「朝日会館」のレコード・コンサートへ行った。この時、始めてLPというものを聞いた。たぶん輸入盤だったろう。『イタリア綺想曲』と『悲愴』だった。チャイコフスキーとの初めての出会いだあった。それまで『白鳥の湖』さえ聞いたことがなかった。
自分は歌謡曲をほとんど聞かない。子どもの頃、自宅に淡谷のり子さん、東海林太郎氏、勝丸さんなどのSPがずいぶんあったが、子ども心にも古めかしい、時代遅れな感じがした。これらは父親のもので、母親は宝塚歌劇に入れあげていて、歌謡曲にほとんど関心を示さなかった。
その後、30歳の頃、ブラームスを聞いて、突然、チャイコフスキーと決別した。しかしチャイコフスキーのレコードは、自分の青春時代の作品のイメージとダブって、何ともなつかしい。ロンドン・フィルの『白鳥の湖』全曲盤は、銀座の日本楽器で品切れと言われ、帰ろうとしたところ、スクラッチの入ったものなら、ということで、五千円引きで手に入れたものだ。そのレコードは今でも持っている。
チャイコフスキーの交響曲第四番をアニメ(『森の伝説』)に使うため、東京交響楽団に演奏してもらいテープにとった。しかし「虫プロ」倒産の時、行方不明となってしまった。結局、別のテープを使うことにした。しかし、今また、決別したはずのチャイコフスキーの曲をアニメ化するというのは、"初恋の人"への思いは、一生続くということなのか。
〇『ふしぎなメルモ』/「小学一年生」(9月〜1971(昭和46)3月)が放映される(〜1972(昭和47))。『ふしぎなメルモ』のオープニングフィルムには「手塚プロ」のアニメーター4人が関わっている。
〇「手塚プロダクション」を富士見台駅前のビルから商店街のビルへ移転する。仕事場のすぐ裏は線路であった。
ヨシミツ
年譜の付録。その37について。(略)
ヨシミツ
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