年譜>その38 1972       /ヨシミツ 1972(昭和47)/44歳
〇「希望の友」で『ブッダ』の連載が決まる。
 当初、「潮出版社」側は「COM」休刊のあとを受け、『火の鳥』の新シリーズの掲載を申し出た。仏教の発祥について『東洋編』として描いてみては、という提案であった。
 手塚治虫は、少年向きの「希望の友」の連載としては不向きであるので、釈迦そのものを主人公とするものではどうか、と言い、タイトルもすっきりと『ブッダ』と決定した。
 手塚治虫はのちのインタビューで、ブッダの生きざま・人間ドラマを自分なりに主観をまじえて描いてみよう、そして仏教と人間が生きることととを結びつけひとつの大河ドラマを描いてみたい。大げさに言えば、ビルドゥングス・ロマンを描いてみたい、と語っている(要旨)。
 「潮出版社」側は、この連載のために「手塚プロ」に、1年間通いつめた、という。

〇「虫プロ商事」の労働争議が激しくなる(8月)。
 手塚治虫は、この頃のことを「どん底の季節」と題して、次のように書いている(要旨)。
 この頃、自分は"疲労困憊の極"に達していた。毎日のように行なわれる「虫プロ商事」労組との団体交渉で、ノイローゼになりつつも、執筆活動を続けなければならなかった。"にっちもさっちもゆかぬ状況"であった。
 「虫プロ商事」は「COM」を発行していて、『火の鳥』の連載もあり、版権業務も順調で、社運も安定して、社内の空気も良かった。それが、外部から勧誘した幹部とスタッフとの間の"ささいなディスコミ"が発端で、それが大きな対立となった。ところがオーナーであった自分はその事情を少しも知らなかった。ついに幹部は休職し、社員は組合を結成し闘争を始めたのである。
 ある日「虫プロ商事」の社長が来て、団交の席に出てくれるよう要請された。自分は役員でないので、と断ると、つい先頃の役員会で登記を済ませ、役員になっている、と言う。手塚治虫の知らぬ間に、手塚の父親が請われるまま実印を押していたのだった。
 やむを得ず「虫プロ商事」へ出向く。社屋は廊下から階段まで一面に、組合のアジビラで埋まっていた。団交の席で組合側から、執筆活動をやめて「経営者」に専念せよ、との要求が出された。「虫プロ商事」労組は、当時活発だったある派の活動家とつながっていたようだ。先日まで和気あいあいと漫画について語り合っていた仲間たちが、今は"資本家"と"労働者"の関係だ。
 1ヵ月の間、際限のないやりとりが続く。団交、対策会議、資金繰り、そして夜は執筆。描いても集中できない。この頃の作品は、暗澹として救いのないものが多い。読み返すのがつらくなるようなやなムードが漂っている。
 社員のほとんどが嫌気がさして退社して、争議がおさまった。そして坂道を転がるように、営業も信用も悪化した。自分は、赤字を埋め合わせるために、必死で原稿を描いた。1ヵ月に500枚ということもあった。

〇「希望の友」で『ブッダ』の連載が始まる(9月〜1978(昭和53)7月)。以後、「少年ワールド」(1978(昭和53)8月〜1979(昭和54)12月)、「コミックトム」(1980(昭和55)7月〜1983(昭和58)12月)で連載。
 初回の『ブッダ』の原稿は、登場人物の顔の部分について何度となく描き直された(ナラダッタの顔は紙を貼って2〜3回描き直したという)。手塚治虫自身の思い入れの深さがあらわれていた。

〇『マンガの描き方』を出版する。漫画は記号であり(「漫画記号論」)、言語を越えて、世界共通に理解される"絵言葉"である、と言っている。
 この「漫画記号論」については、のちに書いたものの中で、次のように言っている(要旨)。
 漫画は、元来、絵だと言われて来たが、漫画の本質は、なにか別の要素(記号のような)で作られたメディアではないか、と思う。たとえば、人が何かに驚いた様子を描く場合、その頭の上に、何本かの線を放射状に描く。これは現実には見えない線だが、読者の(たぶん世界中の)誰もが、驚いている、と判断するだろう。
 ほかにも漫画にはさまざまな記号がある。漫画はそれら記号の集まりで、それが世界共通の意味を持っているとすると、りっぱな国際語だ。日本人は、その記号をたくみにあやつり、新しいコミュニケーションのメディアとして確立した。
 ならば、海を越えて、外国の人々に理解されていいはずだ。ただし、そのメッセージが国際的に優れたものであれば、だが。その点については、いささか首をかしげざるを得ない。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その38について。(略)
                              ヨシミツ