年譜>その40 1974 /ヨシミツ
1974(昭和49)/46歳
〇「手塚治虫30年展」が東京荻窪の画廊で開催される(2月)。会場には大勢のファンが詰めかけ、開催中も奥の座敷で原稿の執筆を続けていた。
〇この頃「虫プロ」の倒産、その後の処理、このまま作家生命も終わるのかと、手塚治虫は大きな危機を迎えていた。その状況を救ったのが、夫人の「一切をきれいさっぱり清算して、一から出直しましょう」という言葉だった。
大きな負債を背負いつつ、東京下井草へ転居した(3月)。
転居の知らせを電話で受けとった葛西健蔵氏は、手塚治虫の声が、何のためらいもなく、張りのある声であったのに驚いた。普通の人間なら泣いていてもおかしくない時に、手塚治虫は頭の切り替えも天才だ、と感嘆した。
〇「少年マガジン」に『おけさのひょう六』を発表する(4/21)。民話調の短篇漫画で、同誌久々の登場であった。
〇「少年マガジン」に『三つ目が通る』の連載が始まる(7/7〜1978(昭和53)3/19)。
おりからの古代史ブームを背景に、南米マヤ・インカの古代文明やインド・東南アジアの神像などをヒントに「三つ目族」の少年・写楽保介が生み出された。キャラクターデザインについては、多くの候補の中から周囲の声を聞き、決定した。副主人公は、和登千代子で、和登さん=ワトソン、写楽保介がシャーロック=ホームズをもじったもの。
〇この頃、手塚治虫は、アニメーション制作から遠のき、漫画の執筆に専念した。この年、月平均312ページを執筆、多い月で363ページであった。別の年では1ヵ月400ページを越えることもあった。仕事場で泊まり込むことが多く、たまに自宅に戻ると、子どもに、今晩は泊まっていくのかと聞かれたこともあった。
〇『ブラックジャック』、『三つ目が通る』の少年週刊誌の連載をはじめ、幼年誌から青年誌まで幅広い執筆活動で、手塚治虫は再び多忙となる。"手塚ブーム"の再来であった。
手塚治虫は「転向漫画家」と題して、次のように述べている(要旨)。
自分は、戦前から戦中期にかけて育ったので、漫画というと"よい子のために"ということで、わりと人畜無害のものを描き続けていた。当時の大人は漫画を目の敵にし、ピストルが出たわ、刀が出たわ、言葉が悪いわ、とことごとく悪書の槍玉だった。
ところが今や大人までが漫画を読み始めると、どうだろう。血しぶきは飛び、暴力・残酷・女性の裸体・セックスまで…。そういう中で"よい子のための"漫画など生温いという訳だ。「手塚の漫画は古くてダメだ」という"三文漫画評論家"を相手にしても始まらないが、"ナウな感覚"が漫画の生命というのなら、やむを得ず、それらバイオレンスな表現も身につけなければならない。
自分は何度も"転向"した。割り切る前の自分は、ノイローゼの固まりのようなもので、ひどいコンプレックスに陥り、八つ当りし、ジレンマの極みに達し、ついに大勢に迎合する。当然、従来のファンは罵倒し、裏切った、と言って去っていく。
しかし、ただひとつ、殺されても断じて翻せない主義がある。それは戦争はご免だということ。反戦テーマは描き続けたい。そういう点では、裏切り者になりたくない。
ヨシミツ
年譜の付録。その40について。(略)
ヨシミツ
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