年譜>その41 1975〜76 /ヨシミツ
1975(昭和50)/47歳
〇『ブラックジャック』で第4回「日本漫画家協会特別優秀賞」を受賞する(6月)。
〇『動物つれづれ草』/「アニマ」(1973(昭和48)10月〜1974(昭和49)9月)、『ブッダ』で第21回「文藝春秋漫画賞」を受賞する(6月)。この賞はそれまで主に大人漫画におくられていたもので、子ども漫画を中心に描いていた手塚治虫としては、ストーリー漫画で受賞できた、ということで、喜びもひとしおであったという。
〇沖縄海洋博が開催される(7月)。同博覧会の海上都市「アクロポリス」の展示プロデューサーを引き受ける。
1976(昭和51)/48歳
〇大手出版社の漫画賞審査員をすべておろしてもらう。審査するよりされる方でいたい、というのが理由であった。手塚治虫は、漫画家には年齢は関係ないから、新人も旧人も一緒くたになって、作品を競い合うことはいいことだ、と述べている。
〇「手塚プロダクション」を高田の馬場へ移転する(5月)。それまでの仕事場が手狭になってきて、移転を考えていた時、たまたま車で通りかかったビルを新しい仕事場とした。
〇南米やイースター島の遺跡を見るために、9年ぶりに渡米する(6月)。
しかしロサンゼルスからサンチアゴ行きの飛行機が故障のため飛ばず、帰国する。
この話はサンリオの編集者・T氏の誘いであった。T氏は『動物つれづれ草』連載当時の「アニマ」の編集長であった人物。サンリオで新しく少女雑誌を出版する計画があり、手塚治虫へのあいさつかたがた、新連載の依頼で「手塚プロ」を訪れていた。
両者の会話の中で、サンリオが劇場用アニメ(『星のオルフェウス』(『メタモルフォーセス』))をロサンゼルスのスタジオで制作中であること、手塚治虫は『三つ目が通る』の取材のため南米の遺跡を見学したいということから、それでは、スタジオ見学と南米行きとをかねて出かけては、という話になった。
当初10日間の旅程であったが、予定の出発日に、まだ3本の原稿が残っており、旅程を変更し、出発を3日遅らせた(6/19になった)。3本とは『ブラックジャック』、『どろんこ先生』/「読売新聞・日曜版」(1/4〜12/19)、『大将軍森へ行く』/「月刊少年マガジン」メタモルフォーゼ(8月)であった。このうち『大将軍森へ行く』についてはロサンゼルスから原稿を送ることにして、羽田空港へ向かった。
ところが、午前7時半発の予定機が燃料もれ事故のため、引き返し、離陸は午後となった。手塚治虫が、羽田空港から「手塚プロ」へ電話しかけたところ、T氏は、それを途中で切った。今、仕事場には、原稿の上がりを待っている編集者もいることだろうし、里心がついてしまっては、という思いからだった。
ロサンゼルスのアニメ・スタジオでは、かつて「虫プロ」で働いていた明田川氏がいた。スタジオ見学中に、新しいキャラクター(ユニコ)を思いつく。
ロサンゼルスで完成した原稿は、明田川氏に依頼して、空港まで届けてもらう。東京で原稿を受け取ったスタッフは、そのページ数を確認したところ、出版社の指定より2ページ多いことに気づき、大騒ぎで削り、無事掲載された。
〇「マンガ少年」に『火の鳥/望郷編』の連載が始まる(9月〜1978(昭和53)3月)。雑誌「COM」休刊後3年ぶりのこと。
〇「リリカ」で『ユニコ』の連載が始まる(11月〜1979(昭和54)3月)。なお『ユニコ』はその後、「小学一年生」でも連載された(1980(昭和55)4月〜1984(昭和59)1月)。またサンリオ映画でアニメ化された(1981(昭和56)、1983(昭和56))。
ヨシミツ
年譜の付録。その41について。(略)
ヨシミツ
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