年譜>その42 1977 /ヨシミツ
1977(昭和52)/49歳
〇「手塚治虫漫画全集」全300巻の刊行が決定される(1/5)。
この日は仕事始めの日であり、手塚治虫は年頭のあいさつかたがた、刊行のための最終決定のため「講談社」を訪れていた。
この話は1975(昭和50)年夏、当時「少年マガジン」編集長であったM氏の働きかけで進んできたもの。戦後漫画文化の記念碑となるような企画を考えているというM氏に対し、意外にも手塚治虫は、次のような理由から、当初、難色を示した(要旨)。
自分の全集は売れないだろう。過去にいくつも企画があったが、実現していない。自分の作品には、知名度の順に、非常に知名度の高いもの(A)、それほど知られていないもの(B)、普通の読者がまず知らないもの(C)と3種類あって、意外とCの部類が多いからだ。M氏は、それならば、手塚治虫自身にその区分けをしてもらえば、トータルで採算がとれるようにします、と返答した。
そして翌1976(昭和51)年には、月4冊ずつの刊行で、全体を100冊ずつの3期に分け、足かけ7年の出版とする、というところまで具体化した。版型はB6版と決定した。これは、手塚治虫が、絵が主体となる漫画本として文庫本のサイズは小さすぎる、と考えていたからである。装丁は、手塚治虫の発案で黒地とし、そこへ手塚治虫のデザインした額縁を描き、その中の表紙絵は、すべて新しく書き下ろしたものが使われた。
また各巻の巻末には、手塚治虫の「あとがき」がつけられ、あらすじの英文がつけられた。初期の作品には原稿のないものもあり、出版されたものから、トレスするなど再び原稿が描き直された。その際、初出のものに手を加えたものもあった。一気に読まれる単行本と、毎回細かく読まれる連載ものとは違ったものである、という手塚治虫のポリシーを反映したものといえる。
〇「手塚治虫漫画全集」が刊行される(6/15)。
〇講談社の企画により南米の遺跡巡りの旅行に出る(6/20)。
出版社のカメラマン松川裕氏と通訳の日本人女性が同行した。所用でいったんパリに立ち寄ってから、30時間をかけてサンチアゴ(チリ)へ向かい、そこからラン・チリ(チリ航空)でイースター島に入った。
手塚治虫はこの時のことを『イースター島は世界のヘソだ』にまとめている。
7〜800年前までモアイ像を作るなど反映していたこの島が、突然、廃れてしまったのを見て、手塚治虫は「このラノ・ララク(モアイ像の誕生の地)は地球の未来かもしれない」と言っている。
宿舎は、イースター島のハンガロア・ホテルであったが、日中の観光を終えると、深夜まで原稿の執筆をしていた。ある晩、ホテルの食事に飽きた手塚治虫一行は島民の家庭で、エビなど魚介類のバーベーキュウを食べた。食事が終わって帰ろうとしたおり、ライターを忘れた松川裕氏が戻ってみると、その家の子どもたちが、自分たちの食べ残しを食べているのを見る。そのことを手塚治虫に話すと、手塚治虫は、自分たちの食べた食事は島民にとってたいへんなご馳走であったろう、日本人観光客が無意識に出す金持ち意識に開発途上国の反発を招くだろう、つい自分もそれにのめり込んでいた、と述懐している(要旨)。
通訳の女性と別れ、2人はリマ(ペルー)へ行く。天野博物館で天野芳太郎博士の話を聞き、のちの短篇小説『ナスカは宇宙人基地ではない』/「SFマガジン」(1978(昭和53)2月)のヒントを得ている。
セスナ機に乗り、ナカス高原の地上絵を見た時の感激を「人間って、まったくもってすばらしい生きものだ!」という言葉で表現している。クモや鳥、サルや魚の絵もそうだが、手塚治虫が、さらに打ちのめされたのは、それらの絵の何百倍、何千倍もの数の幾何学的な線條だった。長いものは、山を二つも三つも越えて更に延びていた。どうやって、何のために引いたのか。人間は、最初(三千年昔)から偉大で驚異的な賢さを持っていたのだ、と言っている。
クスコを訪れた時、食事後、気分が悪くなり、酸素マスクを付け1日ホテルのベッドで休養をとっている。
クスコに着き、ホテルへ着くと、すぐさま、インディオの市場へ出かけ、骨董のガラクタをあさりながら、酒を飲んだ。そのまま郊外のサクサイワマン遺跡の石積みを見に行って、登り降りし、さらに、リャマを追いかけた。
そして、気分が悪くなったというのは、その晩のことで、動悸が激しくなり、脈拍をはかると、発熱40度の時と同じレベルである。生れつき神経質な上に心搏欠滞症の持病で、もう"オダブツ"かと思う。心臓麻痺で死ぬかもしれないと、不安と無常感と腹立たしさで、一晩眠れなかった、という。酸素マスクは、その朝のこととも。
マチュピチュ遺跡では、現地のインディオの子どもたちの奇妙なアルバイトについて書いている。遺跡は、鉄道の駅からさらに数百メートル上にあるので、駅からつづらおりの坂道をバスで登る。遺跡の見学を終えて、バスで坂道を降りる時、子どもたちが、斜面を直線にかけ降りて、カーブを曲がり降りるバスの前に先回りをして囃し立てる。駅に着くまで、それを何度か繰り返す。そのうちに車中の観光客が拍手するようになり、駅へ到着し、バスを降りるところで、チップを渡すという訳だ。手塚治虫は「何とたくましいアルバイトだろうか」と言い、(日本の)都会の子どもたちには、望めない姿だろう、と言っている。
ユカタン半島(メキシコ)・チチェン=イツァ遺跡を訪れる。この遺跡は、古代マヤ文明の遺跡である。そこにはピラミッド型の神殿があり、観光客は、その神殿の30度の傾斜の石段を、息を切らせて登る。しかも、現地のガイドの話では、アメリカ人女性が何人か転落死しているという。高所恐怖症だという手塚治虫も、試みた。登りは良かったが、頂上で下を見て、足がすくみ、立ち往生となった。転落して死ぬよりはましだということで、観光客が減ったのを幸い、ぶざまなかっこうで、這うようにして降りたという。別のところで、この時も、テキーラをしこたま飲んだ、と書いている。
これら古代遺跡巡の間も原稿の執筆は続けられ、東京に郵送されていた。国際電話で、背景などの指示を出していたが、原稿料より電話代の方が高くついたという。
ヨシミツ
年譜の付録。その42について。(略)
ヨシミツ
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