年譜>その43 1977〜78    /ヨシミツ 1977(昭和52)/49歳
〇『ブラックジャック』、『三つ目が通る』で第1回「講談社漫画賞」を受賞する(7月)。

〇体調を崩し、約3週間の休養をとって、連載も中断する(8/15)。漫画家生活の中で初めてのことであった。静養中であっても、読者から忘れられてしまはないかと、仕事のことが頭を離れなかった。

〇大林宣彦監督『瞳の中の訪問者』が公開される(12月)。この映画は『ブラックジャック』の中の一話「春一番」が映画化されたもの。

〇長男・眞さんと連れ立って、日本公開前の『スター・ウォーズ』、『未知との遭遇』を観に、ロサンゼルスへ行く。

〇『マンガの描き方』を「光文社」から、初のエッセー集『手塚治虫ランド』を「大和書房」より、それぞれ出版する。

1978(昭和53)/50歳
〇『火の鳥/黎明編』が監督・市川崑氏によって映画化されることが決定する(2月)。この作品は、実写とアニメの合成が使われ、手塚治虫はアニメ部分の総指揮をとることになった。
 手塚治虫は『火の鳥』のアニメ化に、長い間、二の足を踏んできたと言う。その理由は、鳥のアニメーション自体が難しいということだ。ディズニーの「ドナルド・ダック」は別として、鳥の持つ尖ったクチバシのせいで、セリフをしゃべらせにくい。従って、よほどデフォルメしなければ、主人公になりにくいということがある。
 キャラクターとしての「火の鳥」をアニメ化すると、そのファンタスティックなイメージが薄れ、ただの普通の鳥になってしまいそうだった。しかもそれがしゃべるとなると、これはどのようなテクニックを使おうと、イメージをぶちこわす危険性があった。
 そこでアニメーターに「火の鳥」は、ツルのように清楚に、クジャクのように絢爛に、オジロワシのように雄大に、ハクチョウのように女性的に描いてくれ、と無理難題を押しつけることになった。出来上がって、何より失望したのは、予想どおり、漫画の時に、漠然とした雄大なスケールを持っていた「火の鳥」が、アニメの中では、ちまちまと、まとまってしまったことだった。

〇テレビ放映用アニメ『バンダーブック』の制作が始まる。この作品は「日本テレビ」の「24時間テレビ」の中で2時間枠で放映されるスペシャル・アニメであった。

〇「テレビ朝日」の『ワールド・ナウ/素顔のハリウッド』(4/16〜6/7・4回放送)のレポーター役で、約3週間、ロサンゼルスに滞在する(3月)。
 番組では、ジャック=レモン、バート=レイノルズなどをインタビューしている。また『指輪物語』制作中のラルフ=バクシ氏にも、スタジオで合う約束を取りつけたが、ラルフ=バクシ氏が、急遽、『指輪物語』制作のため、スペインのスタジオに出かけ不在で、実現しなかった。
 その間、CBSニュースへの出演、『スター・ウォーズ』撮影スタジオの見学をしている。さらに日本から持ち込んだ手塚アニメの上映会も行なっている。上映したアニメは『クレオパトラ』、『どろろ』、『新宝島』であった。今日「ジャパニメーション」の造語を生むほどの、日本のアニメ・マニアたちのための上映会で、手塚治虫自身も、熱心に解説したという。
 滞在中も執筆は続けられ、この時、ロサンゼルス在住の日本人漫画家K氏に依頼し、東京に送ってもらった原稿は『未来人カオス』/「少年マガジン」(4/16〜1979(昭和54)1/1)であった。
 ロサンゼルスでの仕事が一段落して、K氏と街を歩いていると、お金をせびる紳士に出会ったり、スーパーに入ってショッピングをしたり、日本食レストランで食欲旺盛なところを見せたりした。

〇この頃、手塚治虫の仕事場は「手塚プロ」のビルの階上のマンションの一室があてられていた。そこへは夫人以外立ち入ることができなかった。唯一の例外は、「NHK特集」の取材カメラだけであった。

〇「手塚プロ」で、アニメーション制作再開のための準備が進む。「手塚プロ」にベテラン・新人のアニメーターが集まってくる。この時、東京池袋の映画館「文芸坐」で手塚アニメの特集があったので、新人アニメーターを連れ、観に行く。
 「手塚プロ」のアニメ・スタッフを第一映画部と第二映画部に分け、それぞれ『バンダーブック』、『火の鳥』を担当することになった。
 『バンダーブック』の作画監督として坂口尚氏が参加する。彼は「虫プロ」出身のアニメーターであり、漫画家でもあった。キャラクターの半分と宇宙船などのメカニカルなデザインを受け持った。
 放映まで残り1ヵ月になっても、進行情況がはかばかしくなかったので、スタッフを増員した。原画家・動画家以下各スタッフが一堂に会して、熱気をおびた作業が続いた。事務所の冷蔵庫にはケーキやお菓子が入れてあった。手塚治虫のエネルギーの一端がそこにあったのかもしれない。
 手塚治虫の妥協を許さない姿勢は徹底していた。あくまで自分のイメージを大切にして直前に背景をかえてみたり、完成したばかりのフィルムを試写して、納得がいかなければ、進捗情況にかかわりなくリテイクした。アフレコのスタジオに入ってから、せりふの変更をしたこともあった。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その43について。(略)
                              ヨシミツ