年譜>その44 1978 /ヨシミツ
1978(昭和53)/50歳
〇「手塚プロ」が久々のアニメ制作で騒然としている頃、『ブラックジャック』の最終回「人生という名のSL」(9/18)の執筆が進められていた。雑誌原稿のスタッフは、アニメ製作の騒々しさを逃れて、旅館で仕事を続けていた。
〇東宝映画『火の鳥/黎明編』(監督:市川崑)が劇場公開される(8/19)。
〇『バンダーブック』が放映される(8/27)。この作品の完成は、当日の早朝であった。
〇北海道の昭和新山を訪れる(11月)。これは『火の山』/「ビッグゴールド2号」(1979(昭和54)3/30)の取材を目的としたもの。
〇プロ野球パ・リーグ「西武ライオンズ」が誕生する(12月)。手塚治虫は「西武ライオンズ」のためにキャラクターをデザインした。
〇この年2度目の渡米に出発する(12/15)。小野耕世氏、鈴木伸一氏とともに出かけた。この時も、出発の直前まで、また旅行先でも原稿を描き続けた。
ロサンゼルスへ向かう機内で、少々お酒を飲んだあと、トイレのため席を立った時、突然倒れた。この時は、水を飲んで、回復する。
到着するとすぐに、話題の新作アニメ『指輪物語』を見に出かける。今回の渡米の目的のひとつが『指輪物語』の封切り・大ヒットという情報を聞き、是非、自分の目で見たい、ということだった。この作品の作者ラルフ=バクシ氏は、全米でウォルト=ディズニーについで著名なアニメ作家で、劇場用アニメばかりを手がけている人物。それまでに『フリッツ・ザ・キャット』、『ヘヴィ・トラフィック』、『クーン・スキン』、『ヘイ・グッド・ルッキン』などといった問題作を作っている。
このアニメには、ロト・スコーピングという技術が駆使されていた。ことに終盤にかけて、やや乱用気味かと思われるほど多用されている。また、終盤になるほど、絵も荒れていて、締切に終われた様子がわかった、という。このあたり、手塚治虫は、ラルフ=バクシ氏のプライドから言っても、断腸の思いだったのでは、と述べている。
トシコ=ムトーさんの案内で、ディズニースタジオ(バンクーバー)を見学したり、ディズニー・プロのアニメーター・ウォード=キムボール氏の自宅を訪問する。
ムトーさんは日本の女流漫画家で、ディズニースタジオでアニメーター(レイアウトマン)としての経験を持っていた。代表作は『チイサナコイビト』。イラストを始めた、という。訪問した日は、クリスマスイヴの前々日で、スタッフの半分は休暇をとっていて、残ったメンバーもパーティーを開いていた。前回の訪問(1964(昭和39)年)にくらべ、たいへん活気があった、という。ちょうど、40人のアニメーターを新規採用したばかりのところだった。それまで、長編アニメの実作業を国外(東欧、ベルギー、北欧など)に外注していた。
『ビアンカの大冒険』のヒットで、いわば、新しい体制がスタートしたところだった。9人のサムライといわれた、ウォルト=ディズニー股肱の臣がいた("ナイン・オールド・メン(Nine Old Men)といい、フランク=トーマス、ウィルフレッド=ジャクソン、ウインストン=ヒブラー、ウーリイ=ライザーマン、チャーリイ=フィリップ、ウォード=キムボールなど)が、現役で残っているのは3人、あとは他界するか隠居した。テレビアニメの隆盛に押されていた劇場用アニメが、見直されてきた(このあたりは日本と似ている)のも追い風だ。
キムボール氏の自宅はロサンゼルス郊外のサン・ガブリエルにあった。キムボール氏にレストランに招待され、そこで手塚治虫はキムボール氏が『ピノキオ』の中で作画したキャラクター・ジミニー=クリケットを描いてみせると、キムボール氏は、ドナルド=ダックを描いて応えた。その時、キムボール氏は手塚治虫に「今すぐディズニー・プロへ来なさい。仕事がたくさんありますよ」とジョークを言われている。
ヨシミツ
年譜の付録。その44について。(略)
ヨシミツ
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