年譜>その45 1979       /ヨシミツ 1979(昭和54)/51歳
〇「手塚プロ」の後援で「手塚治虫ファンクラブ」が発足する(4月)。
 手塚治虫は1955(昭和30)年から数年間「虫ニュース」という小新聞を発行していた。続いて1964(昭和39)年から「鉄腕アトムクラブ」、1966(昭和41)年には「COM」と受け継がれ、この年、ファンへの情報サービスが復活したものである。
 その準備号(会誌0号)で、手塚治虫は、自分が、また、アニメの制作を復活させたことについて「先駆者ではあるが、過去の人」といわれると、もりもりとファイトがわいてくるのだということ、そしてアニメ制作が始まると、どうしても漫画雑誌がおろそかになってしまうということ、しかしこれからは両方を両立させたいと思っていること、などその心中を語っている。さらに劇場用アニメーション『火の鳥 2772』について、雑誌とは違うオリジナルのシナリオで、フル・アニメーションや特撮を使い、次に何が出てくるかわからない"センス・オブ・ワンダー"あふれる、楽しい作品にしたいと、その抱負を述べている(要旨)。

〇『火の鳥 2772』の制作発表会が行なわれた(3/29)。
 手塚治虫が原作・演出・総指揮をとった。また、監督に杉山卓氏を迎え、両者は、時には議論をまじえながら、作業を進めていった。ちなみに杉山卓は「虫プロ」時代、『W3(ワンダースリー)』などのチーフ・ディレクターとして活躍した人物である。
 杉山卓氏は、手塚治虫の構想にそって脚本などを書いていったのだが、ある時は熱海・大阪と移動中の手塚治虫とともに仕事を進めていった。
 またテレビアニメとは違った体制がしかれた。アニメーション・ディレクター制として演技担当の加藤和子さん、画面効果担当の石黒昇氏が起用された。また主要キャラクターを担当アニメーターが全編を通して描くキャラクター制を導入し、演技の統一をはかったり、原画マンを増員し、2つのチームで、緻密な原画を作ったりした。
 一方、特撮に関する新技術を生かすために、特撮監督に八巻磐氏を起用した。彼も「虫プロ」で手塚アニメに携わったことのある人物。当時、CMの特撮で有名なアニメーション・スタッフルームに所属していた。彼のもと、次のような特撮が駆使された。
 平面の画像を電気的に立体化するためにスキャニメーションという装置を利用する。これは当時、日本には「東洋現像所(イマジカ)」に1台あるのみであった。
 実写フィルムの活用。チューブの中の赤ん坊を人形で表現する、宇宙空間の爆発シーンを水槽に投げ入れた泥絵の具で表現する、人間や宇宙船の動きをあらかじめ実写しておいてアニメに起こして表現するなどが行なわれた。また実写からアニメを起こすには、アクショントレーサー(ナックが日本で開発した装置で、本来は航空写真から地図を作る時に使うものであった)が有効であったが、この時1台しか用意できなかった。1台では効率が悪いということで、「富士ゼロックス」のコピーフローが使われた。この装置は35ミリフィルムを印画紙より薄いロールペーパーに焼きつけることができ、通常の動画机での作業が可能となり、格段に効率が良かった。
 未来都市を疾走する車を後方、上方、前方とあたかもカメラが空中を移動するようにして描かれるシーンでは「手塚プロ」の廊下に模型で街並を作り、これを8ミリで撮影し、パース(遠近法)の変化の参考とした。このシーンを担当したのが、原画マンの小林準治氏であった。50秒のシーンに2ヵ月を要した。のちに小林準治氏は、手塚治虫の実験アニメ『ジャンピング』の作画を任せられる。このシーンは映画公開時に話題を呼ぶが、ヒッチ=コックの映画のカットからパロディ的に導入したものだったという。
 この作品は国際舞台にのせられるものにしたいという構想のもと、火の鳥に対する西欧人のイメージなども参考にして、雑誌とはまた違った火の鳥像が完成した。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その45について。(略)
                              ヨシミツ