年譜>その47 1980 /ヨシミツ
1980(昭和55)/52歳
〇『火の鳥 2772』が公開される(3/15)。
〇"漫画大使"として渡米する(3/16)。国際交流基金が進めていた現代日本文化の紹介の一端として、手塚治虫が起用された(当人は、"マンガ行脚"と言っている)。『火の鳥 2772』をたずさえ、筑波大学・副田義也氏とともに、アメリカ各地で講演をした。これは、国際交流基金の職員が副田義也氏のもとを訪れ、話を持ちかけたおり、手塚治虫を推薦し、実現したもの。
副田義也氏は自身、漫画愛好家でもあり、手塚治虫が、以前、筑波大学で講演した時、学生たちに人気があったのを見ていたので、推薦した。加えて、現地へ行って、アメリカ各地の総領事館の事務官クラスの人と接触すると、いわば漫画世代の若い人たちがいて、漫画文化に深い理解を持っていてくれた、という事情もわかってきた。
講演は国連(ハマショールド講堂)を皮切りに、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコの大学など8会場で行なわれた。
講演が終わっての質疑応答について、手塚治虫はメモを取らなかった。副田義也氏のメモから、こんなやりとりがあったと、書いている(要旨)。
なぜ、このような(漫画)ブームなのか、という質問には、(日本は)アメリカと異なり、「講談社」「小学館」のような大資本の出版社が積極的に漫画の出版に力を入れたからだ、と答え、なぜ、漫画やアニメの水準が高いのか、に対しては、優れた作家が輩出したこと、その作家のかなり多くが映画監督志望で、映像に対して高度な感覚を持っていて、特に地方都市で漫画を描くことで代用し、満足せざるを得なかった人が多かったからだ、と答えている。
また来日経験のあるアメリカ人からは、電車の中で漫画を読み耽っている学生やサラリーマンが多いのはなぜか、という問いが出て、長距離通勤のストレス解消と良い暇つぶしになっているのだ、と答えている。
副田義也氏自身は、ことにカリフォルニア大学での講演が、印象に残ったという。『火の鳥 2772』を観終わって、日本の女性は、育児ロボット・オルガのような境遇なのか、女性差別はないのか(女性差別に関わる質問については、ある程度、予測していた)、日本の漫画のキャラクターは、特に女性など目が大きくキラキラとしていて、日本人らしくない、それはなぜか、といった質問が出た。これに対し、副田義也氏は、手塚漫画のキャラクターを特に日本人風であるとか白人風であるとか思わない、皆さんが疑問を持たれるのは、手塚漫画のキャラクターがアメリカ人のステロタイプの日本人(つり上がった細い目を持つ顔)と違っているからではないか、と回答した。
手塚治虫は、日本の少女漫画の女性の顔の目には星が輝いているが、少なくとも漫画を描いている当人たちは、自分の顔がそうだと思っているだろう、『火の鳥 2772』の登場人物たちについては、遠い未来の話であるから国際結婚が進んであのような顔になる、と回答した。この回答は、会場ではジョークと受け取られ、盛り上がったという。
この時も宿舎では執筆が続けられた。
この講演のあと、手塚治虫は、テレビ番組のロケがあるということで、フロリダのディズニーワールドへ行く。副田義也氏は、依頼された手塚治虫の原稿を持って、帰国した。この原稿は『火の鳥/乱世編』/「マンガ少年」(1978(昭和53)4月〜1980(昭和55)7月)であった。
この旅行中、副田義也氏は、手塚治虫の口から「自分は作家とし曲がり角にきている」という言葉を耳にした。副田義也氏はそれを、80年代の創作決意の表れであろうと受け取った。
〇東京都東久留米市に転居する(4月)。新居の門から玄関までは庭木の植え込みの中、階段を上っていくのだが、クモの巣よけの杖が必需品であった。
〇アメリカ・カルフォルニア州サンディエゴで開催された「コミックコンベンション」に参加する。即売会・講演会・オークション・テレビショー・ムービーショー・シンポジウム・仮想大会など行なわれた、5日間の"コミックの祭典"であった。1万人以上のプロ・アマが参加した。
日本からは、手塚治虫のほか、モンキー・パンチ、永井豪とその一党、北島洋子、いがらしゆみこ、池原成利、バロン吉元、それに評論家の小野耕世の各氏に各新聞・出版関係者など多くが参加した。
主催者側でも、パンフレットの表紙に、わざわざ漫画入りで「日本人が来たってどういうことだ?」というキャプションを入れたり、ひとりひとりの紹介記事を大きく扱ったり、コスプレで、三船敏郎ばりのサムライや日本のアニメの主人公が登場するなど、大いに歓迎してくれた。『マジンガーZ』、『ルパン三世』など日本のアニメーションが、彼の地のマニアの間で人気がある様子を見る。
会場では『火の鳥 2772』や『ルパン三世』が上映された。『火の鳥 2772』は、アンコールを含め3回上映され、3回目には大入り満員であった。そして「サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞」を受賞した。
このコンベンションでも「なぜ日本ではそんなに漫画ブームなのか?」という質問が殺到したという。
この旅行中も忙しく執筆が続けられた。東京の「手塚プロ」のアシスタントに方眼紙を用意させ、国際電話でコマ割りの指示を出し、手塚治虫はキャラクターを、東京のアシスタントは背景を描いて、あとで貼りあわせた。また手塚治虫の帰国と同時に成田のホテルでカンヅメをした。これは高田の馬場の仕事場へ帰る時間も惜しいから、ということであった。
ヨシミツ
年譜の付録。その47について。(略)
ヨシミツ
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