年譜>その49 1981 /ヨシミツ
1981(昭和56)/53歳
〇「サンリオ映画」制作の劇場用アニメーション『ユニコ』が一般公開される(3月)。
〇「ビッグコミック」に『陽だまりの樹』の連載が始まる(4/25〜1986(昭和61)12/25)。
この作品誕生のきっかけは、手塚治虫がある医大で、講演した時に、聴衆の中に日本医史学会の深瀬泰旦という人がいて、手塚治虫の四代前の先祖は、手塚良庵(良仙)ではないか、と言われたことである。その人から「歩兵屯所医師取締/手塚良斎と手塚良仙」という貴重な資料を送ってもらい、幕末を舞台に、勝海舟、山岡鉄舟、福沢諭吉、緒方洪庵などの登場する大河歴史ロマンを構想した。
手塚治虫自身も四代前の祖先が府中藩松平氏の侍医だったということを、うすうす知っていた。「歩兵屯所医師取締/手塚良斎と手塚良仙」によると、手塚良庵は、1855(安政2)年11/25、江戸小石川三百坂の家を出て、大坂・適塾に入門した。359番目で、8ヵ月前の328番目には、福沢諭吉が入門していた。
『福翁自伝』に、手塚良庵のことが出ていて、それによると、彼は部類の道楽者で、毎夜のように廓通いをしていて、これには福沢諭吉も呆れ果てていた。そこで、諭吉は良庵に忠告して、廓通いをやめさせた。ところが、女を断った良庵は、諭吉にとって、どうもおもしろくない。そこで仲間と、わざと女文字の手紙をでっちあげ、良庵に読ませた。けげんに思って良庵が廓へ行こうとするところをとっつかまえて、よってたかって坊主にした。良庵は平謝りして、一同に酒肴を振る舞うことで許された、という。
〇『ブラックジャック』がテレビドラマ化され、「テレビ朝日」で放映される。
〇実験アニメーション『ジャンピング』制作の話をアニメーター・小林準治氏に持ちかける(6月)。以後、2年半、この作品に取り組む。
〇「日本テレビ」の「24時間テレビ」にテレビアニメーション『ブレーメン4』を発表する(8月)。手塚治虫が、原案・脚本・総指揮をとる。
〇プライベートな実験アニメーション『ジャンピング』の制作に入る。
〇「ライオンブックス」シリーズの作品をアニメ化する。
〇『鉄腕アトム』新シリーズの放送が終了する。
〇手塚治虫の母・文子さんが、"一種錯乱状態(老人性鬱病)"になる。この時の様子を手塚治虫は次のように書いている(要旨)。
母の"ぼけ"は4〜5年前から徐々に始まっていた。それが突発的な錯乱状態になったキッカケは、引っ越しであった。何度か転居をしてきたが、その都度、母は長い時間新居になじめない様子だった。今の家は、緑の多い高台にあって、母は、満足だろうと思っていたが、間違いであった。部屋に引きこもって、出歩かなかった母が、ある日、突然「2人の男が来て、私を脅迫する」と言い出し、仏壇から礼拝を持って逃げ出そうとする。さらに母の生活が昼夜逆になった。家内の寝室を一晩中たたいて起こす。症状が急テンポで進むので、医者の診察を受ける。医者に連れて行くのにも苦労したが。
その後、治療もあって快方へ向かった。このことがあって、夫人・悦子さんは、自分は長生きをしたくない、と言うようになった、と言う。
ヨシミツ
年譜の付録。その49について。 /ヨシミツ
手塚治虫の先祖が、適塾出身の蘭方医だったという話を、うすうすは知っていたものの、日本医学史の研究者から指摘されているところが、何とも、おもしろいですね。
まぁ、日本人の場合、よほどの名家でもない限り、そんなところが実態なんでしょうね。
それでも、そのことをヒントに創作に結びつけてしまうところは、手塚治虫らしいですね…。
以前にも書き込みましたように、この適塾という蘭学の塾は、現在も、大阪市内に残っていて、一般に公開されています。
大阪大学医学部の前進のひとつであったはずです。のち、太平洋戦争の敗戦前後に、この阪大医学部に、手塚治虫自身が、関係する訳ですから、奇しき因縁といったところでしょうか。
ヨシミツ
|