年譜>その50 1982 /ヨシミツ
1982(昭和57)/54歳
〇フランス・アングレームで「国際漫画祭」が開催される(1月)。手塚治虫も出席する。政府の協力で行なわれ、文化大臣も出席する、大規模なフェスティバルである。3日間の開催で、約17万人がやって来た。
手塚治虫は、フランスの子供雑誌は50誌近くあり、単行本も多く出ていて、漫画が盛んである、外国のものはアメリカのものが入っている、日本のものは、アニメで知られていて、『グレンダイザー』、『キャンディ・キャンディ』、『キャプテン・ハーロック』、『リボンの騎士』などが輸入されている、と言っている。
会場では『火の鳥 2772』、『バンダーブック』、『鉄腕アトム』を上映した。
この会場で、フランスの著名な漫画家・ジャン=メビウス=ジロー氏に会う。メビウス氏は、手塚治虫の印象について次のように語っている(要旨)。
それまで、日本の漫画やアニメ、手塚治虫について何も知らなかったが、彼の熱意にはひかれた。アングレームで、日本へ来るよう招待を受けたが、儀礼的なものであろうと思っていた。しかし、数か月たって、実際に招待状を受け取り、来日することになった。彼のおかげで、奈良・京都・東京でも、一般の観光客では見られない面を見ることができ、それ以来日本の魅力にひたり切っている。手塚治虫の優しさと魅力のおかげである。さらにまた日本の漫画やアニメを知り、そのバイタリティや多様さを通じて、思いもかけない世界が広がったのも、彼と出会った恩恵のひとつである。「ベレー帽の男」は偉大なアーティストであり、魅力あふれる人物である、と。
当時、ジャン=メビウス=ジロー氏が作画監督をした『時の支配者』の公開があたり、コスチューム・デザインを担当した『トロン』がアメリカで評判をとっていた。その関連もあり、東京で、手塚治虫とともに、シンポジウムが開かれたり、東京上野の森野美術館で開催中だった「マンガ博覧会’82」へ案内したりしている。
〇この年の夏、「手塚ファンマガジン」に『プライム・ローズ』/「少年チャンピオン」(7/9〜1983(昭和58)1/7、1983(昭和58)1/28〜6/3)の構想を語りながら、当時の心境を次のように語っている(要旨)。
漫画とアニメの2つの仕事にジレンマを感じている。自分は雑誌漫画の仕事をあと何年続けられるだろう、これは至極、現実的な問題で、あと15年もすれば、当然、引退もするだろう。だとすれば、ここ5年が勝負だ。その点、アニメは若い人が集まれば作れる。しかし仕事を雑誌一本にしぼってしまうと、いざアニメを始めようとした時、スタッフがいなくなってしまう。今、自分自身、漫画をとるか、アニメをとるか、岐路にたって悩んでいる、と。
〇『アドルフに告ぐ』の執筆を開始する。この年の暮、手塚治虫は風邪で体調を崩し、自宅で執筆をすることがあった。その際、高田の馬場のスタジオと自宅との間往復3時間かかるところ、自宅に1人、駅に1人、スタジオまでに1人を配置して、原稿のやりとりをした。
記録によると、12/15・午後3時25分、『ブラックジャック/流れ作業』20ページ完成、12/16・午後0時、『陽だまりの樹』18ページ、筑波科学博ポスターなど完成、12/17・午後9時、『アドルフに告ぐ』第1回10ページ完成、12/19・午前7時半、『ブラックジャック/短指症』20ページ完成、12/21・午前4時45分、『アドルフに告ぐ』第2回10ページ完成と、10日あまりで80ページを執筆している。
ヨシミツ
年譜の付録。その50について。(略)
ヨシミツ
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