年譜>その51 1983       /ヨシミツ 1983(昭和58)/55歳
〇手塚治虫の母・文子さんが亡くなる(1/4)。葬儀の日、漫画家協会の片山氏にコレクションを見せるなど、ふさわしくない行動を見せ、そのことを片山氏に指摘されると、手塚治虫は、悲しくて悲しくて、気が動転しているんだ、と言った。

〇「週刊文春」に『アドルフに告ぐ』の連載が始まる(1/6〜1985(昭和60)5/30)。このストーリーはベルリンオリンピックから始まる。その雰囲気をつかむため、アシスタントと映画『民族の祭典』を観に行っている。
 また作品の着想は、たまたま読んだ本の、ヒットラーにはユダヤ人の血が混じっている疑いがある、という一行であった。これに以前から興味を持っていたゾルゲのことを結びつけ、架空の第三者を登場させることによって、からめていくということを思いついたという。手塚治虫は、このヒットラーとゾルゲのように、もともと結びつかないものを結びつけるのが自分の発想だ、といっている(要旨)。

〇フランス・アヌシーで開催された「アニメ映画祭」に出席する(6月)。同映画祭に『千夜一夜物語』、『クレオパトラ』が招待上映されることになった。
 当時「国際アニメーションフィルム協会(ASIFA)」の公認する国際映画祭は、アヌシーを含め、ザグレブ(旧ユーゴスラビア)、バルナ(ブルガリア)、トロント(カナダ)の4つであった(のちに広島(1985(昭和60)〜)、上海(中国/1988(昭和63)〜)が加わる)。
 今回の日本側出席は、手塚治虫のほか、久里洋二氏、木下蓮三氏の3人。出品は、古川タク氏ひとりであった。『ジャンピング』は間に合わなかった。ところが、参加間際になって、手塚治虫のアニメーションを特別上映したい、という話になり、事務局から『千夜一夜物語』、『クレオパトラ』の2作を指名された。その時、手塚治虫は、『千夜一夜物語』はともかく『クレオパトラ』は自分の最大駄作だ、と言って、難色を示した。とにかく送ってくれ、という事務局の要請で、その2作の招待上映と『火の鳥 2772』、ビデオで『鉄腕アトム』『マリン・エクスプレス』の2作を上映することに決まった、という。この中では、ことに『火の鳥 2772』が好評で、アンコール上映が2回もあり、終わったら明け方であった。
 会場で、フェスティバルの"顔役"のひとりブルーノ=エドラ氏に会う。どうして、"エロアニメ"ばかり(上記2作のこと)を希望したのかと、手塚治虫が聞くと「我々は、手塚治虫をエロティカルアニメの大家だと思っている」との返答。フェスティバルに出品されているアニメは、何らかのかたちでエロチシズムをテーマにしているが、我々は、暴力的なものやセックスそのものが、アニメのエロチシズムではないと思っている。何も「性」やポルノを描くことではない。アニメが求める本当のエロチシズムはこうだ、という納得のいく作品には、なかなかお目にかかれない。ところが、手塚作品にはそれがある、と言われる。手塚治虫は「ぼくは、とうとうエロアニメ作家にされてしまった」と述懐している。
 このフェスティバルのグランプリは、チェコスロバキアの『ダイアローグ・オブ・ディメンジョン』だった。
 翌1984(昭和59)年のザグレブ映画祭で「アニメのエロチシズム」についてシンポジウムを予定しているので、参加するよう求められる。手塚治虫は、アニメのメタモルフォーゼする時の動線に、アニメの追求するエロチシズムがある、というのが持論であった。
 このあと、ウィーンで日本週間を開催中だということで、日本のアニメ界についての講演をすることになり、立ち寄る。しかし、手塚治虫を紹介したパンフレットに誤訳があり、手塚治虫のことが「ピンク・パンサー」の生みの親だと書かれてしまう。そのため、多くの子どもたちが押し掛け、講演のあと、壇上の黒板に「ピンク・パンサー」を描く。そして、そのあと100枚以上の「ピンク・パンサー」のサインを書くことになってしまった。

〇「サンリオ映画」制作の劇場用アニメーション『ユニコ 魔法の島へ』が一般公開される(7月)。

〇自主制作アニメ『緑の猫』(10月完成)、『雨ふり小僧』(12月完成)など「ライオンブクス」シリーズかアニメ化される。これらは、実験的かつ趣味的な作品として制作された。

〇第4回「日本文化デザイン賞」を受賞する。『鉄腕アトム』で、日本人のロボット観に多大の影響を与えたということで授与された。

〇科学万博(1985(昭和60)年)のマスコットマーク選定委員長をつとめる。

〇ユニバーシアード(1985(昭和60)年)のマスコット『ユニタン』をデザインする。

〇東京椎名町のアパート「トキワ荘」が取り壊されることになり、手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎など各氏が集まった。この様子は「NHK」に取り上げられ、番組として放映された。

                              ヨシミツ 年譜の付録。その51について。    /ヨシミツ  漫画の執筆では『アドルフに告ぐ』の連載を開始し、国際アニメについては、フランス・アヌシーの「アニメ映画祭」への参加と、相変わらず、多忙な日々を送っていますね。
 そして、この年、手塚治虫の母親が亡くなります。手塚治虫を、マンガ家の道へ進ませるきっかけともなった、あの一言を言ってくれた人でした。
 手塚治自身、とても動転していた様子が、伝わってきますね。

 同じ年、トキワ荘が解体されてしまったというのも、偶然とは言え、何かを象徴しているようでもありますね。

                              ヨシミツ